脳科学と仏教の碩学同士の対話。両者それぞれの書籍自体を興味深く読んできた身としては、その二人による対談というだけで興味が喚起される。加えて、本書を読めばお分かりの通り、二人のベクトルは近く、対談が噛み合っているのですんなりと入ってくる。欲を言えば、もう少し反論し合うところがあってもと思うものだが、それは無い物ねだりというものであろう。
スマナサーラ 世の中は、明日どうなるかわかりません。我々はずっと精神的に、「どうなっても対応するぞ」というオープンアプローチ、開放されたアプローチでなければいなければいけないのです。それなのに、自分の世界で固まっていたら、自分の思い通りでないものすべてに対して怒らなくてはいけないでしょう。(中略)最初から「思い通りにいかないもんだ」とわかって、周りがどんなに自分の意に反することをやってきても、「対応してやるぞ!」「怒らないで行動するぞ!」というチャレンジャー精神で行きたほうが、ずっと楽です。しかし、それをするためには自我が邪魔なのですね。(53頁)
安易な自分探しを否定する両者。スマナサーラ師はその理由を、イデア的なあるべき自己像という静的なものを創り出すことで、自分自身を苦しめてしまい、かつ変化に対応する動的な自己像を排除してしまうこととして挙げている。これは、近代的自我のデメリットの一つであり、自我によるクローズドな世界観の問題とも換言できるであろう。
スマナサーラ 死を実感すると心が緊急モードに入ります。すべての能力を一点に集中します。脳の働きを逆転して解脱に達するためには、このパワーが必要です。ですから、仏教は、つねに迫ってくる死から逃げ回るのではなく、死に直面して観察するのです。死に「こんにちは」と言うのです。現実的には、自分の死に「こんにちは」と言えないので、他人の死を観察するという修行をするのです。人生を明るく活発に、有意義に生きたいと思うならば、死を認めることです。(75頁)
また、死を遠ざけてきた近代社会を踏まえて、死に直面することで生をたのしみ、現在を重視した生き方ができると説く。逆説的ではあるが、納得的な示唆である。卑近な例だが、体調を壊す時に体調のことを大事に思うということと同じであろう。
養老 まじめな人が陥りやすい罠というのは、嫌いなものをなくそうと思うことでしょう。人間が何かを嫌うというのは、もうしょうがない。そう思って、ずらせばいいんですよ、とりあえず。どんどんずらせるようにすれば、具体的には苦労がないですよね。(141頁)
オープンに生きるということをヒントとして提示しているこの箇所も面白い。嫌いなものとは相対的なものであるという指摘は納得的である。それをなくそうとすることは不可能である。しかし、不可能であるからこそ、自分自身の努力によって嫌いなものをずらしていくという発想の逆転から学ぶことは多いのではないだろうか。
【第831回】『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎/植木雅俊、筑摩書房、2015年)
【第834回】『京都の壁』(養老孟司、PHP研究所、2017年)
0 件のコメント:
コメントを投稿