2018年10月8日月曜日

【第892回】『天狗争乱』(吉村昭、新潮社、1997年)


 桜田門外ノ変へと至る水戸藩内の門閥派と改革派の対立構造は著者の『桜田門外ノ変』に詳しい。同書における改革派が、事変後数年を経て尊攘派と受け継がれた。

 門閥派は、そうした尊攘派を「身分の低い尊攘派の者が急に鼻を高くして威張りちらすとして、蔑みの意味をこめて天狗派と呼ぶようになった」(33頁)という。これが天狗派もしくは天狗勢と呼ばれる水戸藩を中心とした急進的な尊攘派の一連の争乱へと繋がる。

 天狗勢の佇まいの清々しさを以前何かの書籍で読んでいて印象深かったのであるが、それは、後半における京への西上過程の行動のようだ。前半は、水戸藩内における門閥派との政治闘争に敗れての暴発的な決起、一部の隊による過剰な軍資金獲得のための町民への残虐行為など暗鬱とした展開が続く。

 武田耕雲斎をトップに据えて、京都へ西上して一橋慶喜に尊王攘夷を直訴することを最終目標に置いてから、規律が厳格に規定され、規律的な集団行動が取られるようになる。しかし、前半期における一部の悪行の印象を完全に払拭することは難しく、また尊王攘夷という思想に基づいた集団ということもポジティヴな印象には繋がらなかったようだ。

 尊王攘夷という一つの思想によってかたく団結した天狗勢は、きわめて不気味な存在に思えた。それに、下仁田、和田峠の戦いでもあきらかなように、天狗勢は、すぐれた作戦能力をもち、隊員の戦意は旺盛で、そのような類のないほどの戦闘集団の入京は脅威であった。(490頁)

 いつの時代でも、特定の宗教や人物を過剰に信奉する組織はカルト集団として警戒されるようだ。尊王攘夷は、当時は一般民衆の間でもそれなりに受け容れられていた考え方である。そうであっても警戒され、さらには天狗勢が慕っていた一橋慶喜も、彼らを京都に入れることのリスクと、幕府への忠誠を優先して天狗勢の入京を拒否する。

 徳川斉昭の息子にして改革派の精神的な拠り所であった一橋慶喜の拒絶により、天狗勢の行動はあっさりと終了する。潔いと形容するには、あまりにもの哀しい結末であった。

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

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