2018年10月14日日曜日

【第894回】『生麦事件(上)』(吉村昭、新潮社、2002年)


 薩摩藩の大名行列の邪魔をしたイギリス人が殺害されたことの意趣返しで薩英戦争が起こり、しかしその戦後対応でイギリスと薩摩藩が近づく契機となった事件。これが生麦事件として称される史実の後生的な評価であろう。

 この前半の表現からは、薩摩藩は当時尊王攘夷の機運一筋のような印象を受けるが、むしろ本書では、藩主の父であり実質的な実験者である島津久光の開明的な姿勢が描かれる。久光の前藩主である斉彬の頃から「藩主が藩士たちに、来航する外国船に決して敵意をいだくことなく、外国人にも穏やかに接するよう指示していた」(19頁)ようだ。

 したがって、久光の観点からすれば、大名行列を横切るという違法行為を働いた人物をルールに基づいて処罰しただけであり、その対象が外国人であったというだけに過ぎない。

 生麦村の事件については、家臣が外国人に斬りつけたのはやむを得ぬことと久光はその行為を是認していた。大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は打果してもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える。(147~148頁)

 現代市民社会の感覚からすれば、「切り捨て御免」は、武士という当時の日本社会における特権階級に対する特権にも読み取れる。ただし、当時の武士階層のトップにいる藩主が「切り捨て御免」を所与のものとして捉えることも理解はできる。<日本>という内側の論理が、その論理が通用しない他国との接点で生じた事件なのであろう。

 生麦事件を機に、薩摩藩と幕府、薩摩藩とイギリス、幕府とイギリス、という三者間のギリギリの交渉が展開され、薩英戦争へと繋がる緊張が描かれる。そうした緊迫感のある展開に、以下のような美しい風景の描写が彩りをもたらしている。

 相変らず雨の気配はなく、藩邸はまばゆい陽光に晒されていた。(7頁)
 鹿児島湾の海面は、眩く輝いていた。(312頁)

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

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