2019年1月6日日曜日

【第919回】『最後の将軍』(司馬遼太郎、文藝春秋社、1997年)


 薩摩や長州、土佐といった明治新政府側に立った作品でも、幕藩体制を守り抜こうとした会津や新選組を描く書籍を読んでも、徳川慶喜は得体の知れない人物であった。何を考え、何を為そうとして行動したのかが理解できず、言動に筋が通っていないように思えてしまうのである。

 本作では、著者の主張は一貫している。徳川慶喜という人物は、他者からの期待が先行し、本人自身も優れた力量を身につけたためにある程度適合できたが、何かを為したかったわけでは決してなかった、という指摘である。

 人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。
 徳川十五代将軍慶喜というひとほど、世の期待をうけつづけてその前半生を生きた人物は類がまれであろう。そのことが、かれの主題をなした。(3頁)
 慶喜はいわば百才を持ってうまれたが、ただひとつ、男として欠落している資質があった。それは、物事に野望を感じられぬということであった。慶喜自身、世子や将軍になりたいとおもったことは一瞬もない。(36頁)

 立場が人をつくる、という言い方がある。たしかにその側面はあるだろうし、とりわけ言動に関しては立場に即したものに変容し易いだろう。しかし、人が抱く思想信条までもが立場によって変容するかどうかは難しく、変容するとしても言動より長い時間を要するのではないか。

 慶喜の場合、徳川家を継承し、政治権力の第一人者を担う上での野望を終生持ち合わせることができなかった。しかし、それを誰が否定できるものであろうか。大政奉還を行った時の慶喜は三十路になる直前の青年にすぎない。薩長土の傑物たちも同じ年代ではあるが、政権を守る側と、それを破壊しようとする側とでは、担うものの大きさが異なる。

 ーー多能におわす。
 ということは、自然、そとにも洩れた。この点も神祖(家康)に似ておわす、という評判を、かれの支持者たちはささやいた。(79頁)

 慶喜は、家康の再来という評判によって徳川側からも薩長側からも過大な評価を得ることになったと言われる。その一つの要素が多能であった点のようだ。多能な才能が彼をして英傑な人物として将軍の座にせしめた一方で、三十路を迎えた直後の戊辰戦争以降の長い隠居生活をゆたかにしたようでもある。

 暗殺された坂本龍馬や大久保利通、周りに担がれて賊軍の名で死を迎えた西郷隆盛の生涯と比べて、慶喜の生涯は必ずしも不幸なものとも言えないのかしれない。

【第644回】『「明治」という国家(上)』(司馬遼太郎、日本放送出版協会、1994年)
【第717回】『覇王の家(上)』(司馬遼太郎、新潮社、2002年)
【第718回】『覇王の家(下)』(司馬遼太郎、新潮社、2002年)
【第810回】『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波書店、1939年)

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