論語を学びたい方に広くお勧めしたい一冊。著者は、論語で書かれている字に着目して孔子が述べたかったことに迫ろうと丹念に努めている。白川静氏の漢字関連の書籍は興味がありながらも難しく感じていたが、本書では論語に特化してそれぞれの字の背景や意味合いが述べられているので入りやすかった。
論語は学而編から始まり、その「学而」として略されている「学而時習之」の解説が本書の冒頭で為されていた箇所が衝撃的であった。一字ずつ見ていく。
まず「学」について。これは、教師が説明する内容を机に向かって淡々と「学ぶ」というイメージを私たちの多くはもつが、論語での「学ぶ」は違うと著者は指摘する。学ぶとは、「机に向かってする勉強ではなく、手取り足取り教わり、そして自分でも手足や全身、五感をフルに使って何かをマネする」という「まねぶ身体」(24頁)を意味するという。学ぶということが「まねぶ」から来ているとはよく言われるが、その背景まで説明されると、いかにそれが主体的かつ身体的な作用であるかがわかるだろう。
二番目の文字である「而」は、漢文の授業では置き字として分類され、特に意味はないと学校の教師は説明するものである。著者は、そのような理解を取らず、而とは「呪的な身体時間」(26頁)を指していると解釈し、「まねぶ」ことには途方もない時間が掛かるという意味合いを出していると主張する。パッと本を読んだり、研修を受ければ私たちの言動が変わることはないのであり、首肯できる箇所ではないだろうか。
三つ目は「時」である。而で長い期間が表れている中で、この「時」は「時をつかむ」(28頁)という意味であり、易経における「時中」をイメージすればわかりやすいだろう。より詳細には以下の引用箇所を読めばおわかりいただけるのではないだろうか。
つらく苦しい「学」が続く。そのつらく苦しい時の果てに輝く「時」がやってくる。それをガッと摑まえる、それが『論語』の「時」なのです。(29頁)
五番目の「之」は指示代名詞であるから特に解説はなく、実質的な最後の文字は四番目の「習」であり、これは「解き放たれる身体」(29頁)と端的に著者は解説する。長い時間をかけて学びを体得した結果として、身体が軽々と解放されるという感覚をここで示しているようだ。
【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【4回目】
【第642回】『すらすら読める論語【2回目】』(加地伸行、講談社、2011年)
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)
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