2016年8月11日木曜日

【第605回】『人生の折り返し地点で、僕は少しだけ世界を変えたいと思った。』(水野達男、英治出版、2016年)

 リーダーシップというと敷居が高く思えるが、それは、これまで積み上げてきたものをもとにしながら、大事にしている価値観に基づいて一歩を踏み出すことなのではないか。著者の言葉を噛み締めながら、一気に読み上げた。

 「社会貢献」なんて大げさなことではない。自分の仕事を通じて、困っている人の役に立つ。それ以上でもそれ以下でもない。
 もし、本当に人の役に立つ製品なのであれば、きっと売上や利益も後からついてくるはずだ。そうシンプルに考えると、腹にストンと落ちた。(9頁)

 マラリアを撲滅するための蚊帳をアフリカで提供するために、事業を立ち上げるための激務の結果、著者はうつ病と診断されて四十日間の自宅待機を命じられた。その働けない期間に自然と浮かんだのが上記の考え方であったという。社会貢献という言葉には崇高なイメージがつくし、事業の立ち上げというと利益を上げなければとプレッシャーが掛かる。しかし、目の前の顧客や患者さんといった人たちの役に立つという地に足のついた考え方の積み重ねによって、結果として社会貢献も利益創造もできるのではないか。私たちの多くの仕事は、著者のチャレンジに比べればもっとスコープが小さく社会的なインパクトも小さいものかもしれない。そうであっても、目の前の人に対して貢献していくことを意識することを繰り返していけば、目的意識を持ち納得しながら働くことができるのではないだろうか。

 タンザニアで合弁がうまくいった要因のひとつは、お互いの信頼関係のもと、50%ずつの出資でリスクを折半し、かつ役割分担がきちんとしていたからだ。
 住友化学は製品の核となる原材料や製造技術と品質管理のノウハウを担当し、AtoZ社は従業員の雇用と製造、東アフリカを中心とした販売を担当する。
 従業員の教育は両者でノウハウを持ち寄り、お互いがそれぞれ自社の役割については責任をもって遂行し、コストと利益についてもきちんと分け合うことを徹底していた。(92頁)

 当たり前のことかもしれないが、ビジネスにおける信頼関係とRole&Responsibility(R&R)の重要性を改めて考えさせられた。信頼関係がなくR&Rがしっかりしていると、他の部門や人の仕事に意識が向かずにセクショナリズムが発生してしまう。反対に、R&Rがなく信頼関係だけで仕事を進めると、できる人に業務が集中し、スキルが属人化し、できる人の疲弊によって組織の力も弱体化してしまう。信頼関係とR&Rとをいかに両立させるかは、異なる文化における企業同士の合弁という観点に限らず、多様な人材間の協働を考える上でもとても参考になる考え方だ。

 特にマラリアのような公衆衛生に関わる分野で、アフリカのような異文化に入っていって、何かを成し遂げるとなればなおさらだ。だから、「焦らず、諦めず、放っておかない」という姿勢が欠かせない。最初からある程度、時間がかかることを前提に物事を進めるのだ。その分、できるだけ早く取り組み始めることも重要だ。(127頁)

 尊敬できるリーダーが「焦らず、諦めず、放っておかない」という言葉を述べているところが示唆的である。特に、興味深いと思ったのは「放っておかない」という部分だ。自分事として当事者意識をもって常に考えているからこそ、何らかの着想が思いつくものであり、そうした着想によって前に進むことができるのではないか。


2016年8月7日日曜日

【第604回】『大学・中庸【2回目】』(金谷治、岩波書店、1998年)

 論語が好きで、ともすると論語ばかりを読んでしまう。今回は、「四書」の論語以外の二つの作品を再読してみた。

 切るが如く磋くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。(大学 第二章・二)

 愚直に学び続け、自分自身を謙虚に省みること。あまりに厳しいと言えばそう言えなくもないが、襟を正されるこうした言葉も時にはいいものではないか。

 是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、その已に知るの理に因りて益々これを窮め、以てその極に至ることを求めざること莫からしむ。(大学章句 本文 伝 第五章補伝)

 高等教育においては、何かを新しくゼロから教えてもらうという態度ではもったいない。そうではなくて、それまでの学びで持ち得た仮説をもとに、考えを推し進めたり、反論を契機として新たな気づきを得る、という学習態度が求められるのではないか。これは苦しくて厳しいというよりも、生きることとも渾然一体として繋がる、ゆたかな学びと言えるのではないだろうか。

 道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。(中庸 第一章・一)

 孔子は一貫して道を大事にした生き方を提唱する。その難しさを理解すればするほど、道とは私たちにとって容易に近づけない存在ではないかと考えてしまう。しかし、道は、私たちのすぐそばにあるものであり、遠くに見える道は道ではないとここで述べられている。では、なぜ道は私たちから遠いところにあると思ってしまうのであろうか。

 道の行なわれざるや、我れこれを知れり。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。(中庸 第二章・一)

 私たちの多くにとって耳の痛い至言である。出過ぎた真似をしても道から遠ざかってしまうし、浅はかすぎても道を遠くに感じてしまう。そうであるからこそ、中庸という生き方が大事なのである。


2016年8月6日土曜日

【第603回】『無門関を読む』(秋月龍珉、講談社、2002年)

 明快にわかる爽快感も心地よいが、わからないことが多い中で、何か心に引っ掛かりを残す読書体験というものもいい。正直、半分程度しか理解できなかったが、深みに圧倒された一冊である。

 日常ふだんの何の問題もないようなところに、改めて問題意識を起こさせるところに、古人の「公案」の慈悲にもとづく(否定即肯定)の活手段が存することを忘れてはなりません。(101頁)

 叱られたら何か自分が悪かったと思うのが自然であり、一喝されると何か自身の言動に問題があったのではないかと思うものだろう。しかし、何も問題がない時に一喝されることによって、普通の状態に対して意識を向けさせることができる、という著者の解釈に唸らさせられる。普通や普段といった状態に対して自覚的になれるというのは、時に重要な気づきを促すものなのかもしれない。

 禅師は僧のかついでいる「無一物」という「空」の意識を否定されたのです。(108頁)

 貧しいことを自慢し、清貧であることを暗に主張する僧に対して鋭い批判を行った公案を解説した箇所である。私たちは、苦労したこと、貧しいこと、虐げられていること、といった否定的なことを誇らしげに語りたくなる時がある。そうした状態は「無」や「空」ではなく、邪な意識が「有」る状態にすぎないのではないか。いたずらに自分を低めようとするときに、そのような自分を認めてもらいたいという意図が内面にあるかどうかを冷静に内省してみたいものだ。

 趙州はそのとき、履をぬいで頭にのせて出て行きました。別に意味などありません。まったく「無心の妙用」です。ただとっさに、もはや再び死ぬことのない、斬っても斬れないあるもの(真実の自己)を、そうした仕方で表現しただけです。趙州の表面的な所作などに付いてまわっては、それこそ「野狐禅」もいいところでしょう。要は、一度徹底的に座布団の上で「自我」に死にきることです。そのとき、不思議にまったく思いがけなく、それこそもう、たくましい宇宙一杯の「無相の自己」に甦ります。それはまったくなんら予期しない偉大な「自己」の誕生の経験です。これを「見性」(自性を徹見する)と申します。(126~127頁)

 有名な南泉斬猫の公案を解説した箇所である。南泉斬猫の解説には、これまでも何度となく接してきたが、今ひとつ理解できていなかったのであるが、著者の解説で腑に落ちた。「履をぬいで頭にのせて出て行」くことが普遍的な正解ということではない。そうではなくて、何も考えずとっさに行った行動というものに意味がある、という点に注意が必要だろう。私たちは、ベストプラクティスと称して他の人や組織の素晴らしい行動だけに着目するが、その意図や文脈と切り離した行動には、他者にとってどれほどの意味があるのだろうか。


2016年7月31日日曜日

【第602回】『禅学入門』(鈴木大拙、講談社、2004年)

 著者の書籍は何冊も読んでいるが、タイトル通り、禅を初めて学ぶ、もしくは学び直すという意味合いでは、最適な入門書である。改めて気づく点が多々あり、心地よい学び直しのひと時となった。

 今禅には哲学無しと言い、すべての教義的権威を否定すると言い、すべてのいわゆる聖典なるものをつまらぬものと言う時に、それは禅がこの否定の行為のうちに何かまったく積極的な、また永久に肯定的な物を提示していることを忘れてはならぬ。(23~24頁)

 禅は何もかもをも否定する。その否定する様は「仏に逢えば仏を殺し」とした臨済の有り様からよく分かるだろう。否定というものは必ずしもネガティヴなものではなく、ポジティヴなものとして捉えるという逆転の発想で著者は捉えていることが興味深い。

 禅は唯一神教的でもなければ、万有神教的でもなく、すべてこうした名目を拒否するものである。従って禅には想を集中すべき対象がない。それは空に漂う雲である。(27頁)

 禅は、名付けること、つまり何かを概念化することを嫌う。概念化することによって、ある対象を解り切ったとすることを否定しているのである。つまり、物事の本質は名状不可能である考え、そのものをいかに捉えるかに焦点を当てる。ここで「焦点を当てる」と書いてしまったが、何かを目で見て同定するということではなく、周囲も含めた存在をありのままに感得するということであろう。だからこそ、空に有を感じ取るという一見するとパラドキシカルなことが書かれているのである。

 いかなる風にせよ、繰返しや真似は、禅の好まないところである。すなわちそれは殺すからである。同じ理由で禅は断じて説明をしない。ただ肯定するのみだ。人生は事実である。そしていかなる説明も不要である、肯綮に当たらぬ。説明することは証明することだ。そして吾々は活きることに何の弁明があろうか。活きるということ、ーーただそれだけで充分ではないか。(80頁)

 何かを名付けることを否定することは、人生そのものを肯定するからである。人生を寄り添い、誠実に生きること。禅は、シンプルな私たちの生き様を称揚する思想であり、否定から生まれる生の思想と呼べるものなのではないだろうか。


2016年7月30日土曜日

【第601回】『孫子に経営を読む』(伊丹敬之、日本経済新聞出版社、2014年)

 企業の戦略論で有名な著者が、孫子を紐解きながら経営戦略について解説を行う意欲的な一冊である。大家による解説はさすがであり、孫子との関連性に唸らさせられる。

 経営、戦略、戦い、スピードといったテーマがある中で、リーダーシップについて考えさせられるところが大きかった。リーダーシップという概念は、ビジョンを描き、周囲を巻き込むという意味合いが強い。しかし、孫子が述べるリーダーシップでは、視野が鍵概念として提示されている。

 視野狭窄になるからこそ、相手につけ込まれるポイントが視野の外にでてしまって、見えなくなるのである。とすると、現場の指揮官を視野狭窄に導いてしまう危険因子は他にないかを考えたくなる。たとえば、欲の深い人は、その欲に目がくらんで視野狭窄になりそうである。
 しかし、欲深の危険を考えると、孫子が廉潔でも視野狭窄になりやすいといっていることの深さが見えてくる。欲深の危険は、そこを敵につけ込まれようとつけ込まれまいと、危険因子である。(80~81頁)

 視野が狭くなることで、よくない結果を導くということは自明であろう。では、なぜ視野が狭くなってしまうのか、を考えることが大事である。孫子をもとに著者が述べているのは、欲深が原因であるとしているが、これも自明に思える。興味深いのは、欲深の理由として、清廉潔白という一見すると素晴らしいとされる性格を挙げている点であろう。つまりは、どのような内容であれ、固執しすぎてしまい、柔軟性に欠ける要素があれば、その善悪は問わず、欲深の原因となり、そこに視野が固定されてしまう。その結果として、周囲に目を向けることが難しくなり、視野狭窄を起こしてしまう。

 人間の長所のすぐ横に落とし穴が広がっている、あるいは短所が存在する、というのは、将に限らず、多くの事象で観察されることである。長所だと思うから、それを伸ばそうとする。それはそれでいいのだが、その行動の副作用に気がつかないのが人間の常なのである。(81頁)

 長所に焦点を当てるというのは、ドラッカーも述べていることであり、マネジメントの原則とも言える。もちろん現実のある側面を正しく描写しているのであろうが、その結果として生じる副作用を意識し、それをケアすること。自身が意識して行うことであるとともに、マネジャーが部下の強みとその周囲にある弱みを自覚することをサポートすることが重要であろう。


2016年7月24日日曜日

【第600回】『柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和、中央公論社、1984年)

 1970年代の日本社会を論じた論考でありながら、現代の日本社会にも通ずる考え方が含まれていることに驚かされる。社会とは、非連続な変容もあるが、多くは漸進的な変化によって形成されるものであり、それ故に社会学の名著は現代でも読み継がれるのであろう。

 このやうに考へると、一九七〇年代以来のさまざまな社会変化の底には、ひかへめに見ても、新しい自我と未来の個人主義にとって、いくつかの希望の芽がのぞいてゐることは明らかだらう。そして、もちろん、その全体像はなほさだかではないとしても、それは少なくとも、十七世紀以来の、あの産業化時代の個人主義とまったく異質であることは、十分に予測することができる。結論からいへば、それは、青春の時代にたいする、成熟の時代の個人主義であり、目的志向と競争と硬直した信条の個人主義にたいする、より柔軟な美的な趣味と、開かれた自己表現の個人主義であることが推測されるのである。(60~61頁)

 ポスト産業社会とは成熟した社会であると著者は端的に述べる。本書でいう成熟とは「必ずしも自己を限定することの尽きるものではなく、むしろ、限定しきれない自己の曖昧さと複雑さとを受け入れること」(37頁)である。つまり、社会を構成する半ば相矛盾する多様な価値観が同居した状況において、自分自身を表現しながら開いた状態におくことが求められるとしている。そうした多様な価値観を受け容れながらも、自分自身を多様な可能性に開き、現時点での有り様を解放すること。二〇一〇年代に書かれた書籍であると錯覚してもおかしくないような鋭い社会分析である。

 こうした社会の有り様は、十九世紀におけるものとの比較で二十世紀以降のものを捉えるとよりわかりやすい。

 十九世紀の個人は、欲望の限度は知らずとも、少なくともその向けどころは知ってゐたが、二十世紀の個人は欲望の方向さへ見失って、いはば二重に不安になったのであった。彼は、何を手に入れるにしても外側に「理由」を必要とすることになり、その「理由」をあたへてくれる世間の評価を求めて、たえず他人の態度に注意しなければならない。環境は刻々に変わりつづけるから、彼はその「理由」を歴史の教訓に求めることはできず、いひかへれば、過去の教育によって形成された自分の内面に求めることはできない。(108頁)

 変化が緩やかで価値観が固定的な社会においては、過去の先例による判断根拠に従って行動すれば問題がない。しかし、変化が激しく多様な社会においては、一つひとつの自身の言動に理由を探す必要が生じ、それが正しかったのかどうかを他者によって評価される。しかも、評価する人間によって価値観が異なるのであるから、ある行動の是非の判断が分かれることもある。したがって、私たちは多様なフィードバックを求めるべく、常に行動しなければならないのである。これが、他者の目を気にする私たちの精神原理であり、様々なSNSで他者からの評価を気にする私たちの心理の背景にはこうしたものが存在するのであろう。自分自身の言動の正当性を他者から認めてもらいたいから、「いいね!」を押してもらわないと不安をおぼえるのである。

 こうした成熟社会においては、新しい形での社交が求められることになる。新しい社交の条件として、著者は二つのポイントを指摘している。

 現実的な条件についていへば、その最大のものは、先に見た生産現場の社会的変化であって、それ自体のなかで、目的志向集団よりも目的探究的な集団が優位を増してゐる、といふ事実である。(120頁)

 第一は、生産から消費へ、効率性からデザイン性へ、結果志向から過程志向へ、という移行である。つまり、目的自体を志向するのではなく、目的を探究するその過程に重きを置き、そうしたコミュニティの中に自分を位置付けることである。それがさらに、形のあるコミュニティからウェブ上のコミュニティへと移行しているのが、二十世紀から二十一世紀への移行を表していると解釈できるだろう。

 第二の条件は、現代の情報化社会がそれ自体の趨勢から多様化を進め、その結果、顔の見えない社会の画一的な情報の力がいちじるしく弱まった、といふことである。(中略)商品もまた、かつてのやうに圧倒的なヒットを見る例が少なくなって、先にも触れた通り、「多品種少量生産」といふのが時代の合言葉になりつつある。といふことは、ひとびとにとって一方的に強制される情報の比重が減り、その分だけ、顔の見える隣人との対話、すなはち、社交の生み出す情報の重味が増す、といふことを意味してゐるはずである。(121頁)

 ここでは、多様な関係性と、顔の見える関係性が指摘されている。一様な関係性ではなく多様な関係性ということは、自身でコミュニティへの参画が求められ、顔の見える関係性では高度なコミュニケーション能力が求められる。多様で顔の見える社交というと聞こえはいいものであるが、そこでは多様で高度な能力が求められる社会になっていることにも留意が必要であろう。


2016年7月23日土曜日

【第599回】『振り子の法則』(ヴァジム・ゼランド、須貝正浩訳、徳間書店、2006年)

 いわゆる自己啓発と呼ばれる書籍では、何か響くものが一つでもあると心地よい気分になる。それは、目新しい何かを見つけるというよりも、実感していても言語化しづらいものをシンプルに言い表してくれるものなのではないか。

 振り子の主な目的は、なるべく多くの信奉者を引き込み、彼らからエネルギーをもらうことにある。もしあなたが振り子を無視したら、振り子はあなたをそっとしておき、ほかの者に標的を切り替える。なぜなら、振り子は、自分のゲームを受け入れてくれる、つまり振り子の周波数で放射してくれる者によってゆれ動くからである。(98頁)

 本書を読んで興味深く感じたのは、振り子というアナロジーである。私たちは何かを信じたり、何かを強く批判したりする。この両極端の二つは表裏一体の関係にあり、振り子の法則に則った言動であると著者はする。つまり、一つのものに対して強くコミットすると、それに同調しない人や事象に対して反発心を覚える。何かにコミットすることは、何かからディタッチすることなのである。そして、特定のものにコミットすることでコミットの質と量が増していき、それに反するものへの反発心もまた強くなり続ける。

 振り子は、こうした人々のエネルギーを吸い取る対象であり、エネルギーをもとに大きくなり続けるという。その最たる例が、戦争、紛争、テロリズムといったものであることは想像に難くない。振り子の法則に基づく負の連鎖をどのように止めることができるのか。それは必ずしも容易なことではないが、著者はヒントを示している。

 振り子を穏やかに沈静化するための興味深い方法がもう一つある。誰かがあなたをいらだたせているとしよう。つまり、あなたにとって問題となっている。そんな時、その人に何が不足しているんのか、その人が何を求めているのか、突き止めてみるというのがその方法だ。では、ここで、何かが不足している人をイメージしてみよう。それは、ひょっとすると、健康、自信、心の平穏かも知れない。考えてみるまでもなく、この三つは自分が満たされていると感じるために必要な基本的な要素である。あなたをいらだたせている人が、その瞬間、本当は何を必要としているのかを考えてみよう。(107頁)

 発想の起点を、自分自身から他者に置くこと。そうすると、自分自身の苛立ちの感情ではなく、他者のニーズに意識が向くことになる。他者の視点に立とうとすることで、自身を俯瞰してみることができて落ち着くことができ、他者のニーズにどのように貢献できるのかという発想につながる。そうすると、もともと、自分自身が苛立っていたものは、自分自身が作り出した振り子の法則によるものであったと気づくきっかけになるのではないだろうか。