2016年9月26日月曜日

【第625回】『銃・病原菌・鉄(上)』(J・ダイアモンド、倉骨彰訳、草思社、2012年)

 学部時代、生理学者であり、進化生物学者でもある生物地理学者の著者が著した本書を読んで、学際研究の素晴らしさに感銘を受けた。改めて紐解いてみて、研究する方の問いの立て方の鋭さに目が向いた。

 なぜ、ヨーロッパ人は、遺伝的に不利な立場にあったにもかかわらず、そして(現代では)知的発育にダメージをあたえうる悪影響のもとで育っているにもかかわらず、より多くの「Cargo(積み荷)」を手にするようになったのか。私がヨーロッパ人よりもずっと優れた知性を持っていると信じるニューギニア人は、なぜ、いまでも原始的な技術で生活しているのだろうか。(38頁)

 現地でのフィールドワークを続けてきた著者ならではの問いではないだろうか。ヨーロッパ人はヨーロッパ人の目線から、アメリカ人はアメリカ人の目線から、そして日本人は日本人の目線から、自分たちの文明・文化の優位性を論じがちだ。とりわけ、先進国と呼ばれる一部の国家の人々以外を対象にした際にそうした傾向は顕著になるだろう。意識的ではなく無意識の言説構造においてそうした態度が出てくるものである。

 しかし、客観的に事実を積み上げていった上で、比較劣位にあるかもしくはほとんど変わらないヨーロッパ人がニューギニア人よりも優位と呼ばれる文明を持っているという事実に著者は驚く。その原因を探りだすのが本書の目的だ。だからこそ、「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」(45頁)という本書の要約は納得的である。こうした環境の際の一つが家畜である。

 家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物は何もそれぞれに家畜化できないものである。(289頁)

 トルストイを意識した美しい対比の文章において、家畜化に関する差異が文化にもたらした影響を表している。多大な考察を踏まえて、さらに踏み込んだ分析の結果として現れた病原菌というアクターに読者の対象は移る。上巻における段階での以下の結論部分に注目しながら、下巻へと興味を誘われる。

 病原菌が人類史上で果たした役割について考慮しながら、本書のはじめでとりあげたヤリの問いかけに答えると、どうなるのだろうか。非ヨーロッパ人を征服したヨーロッパ人が、より優れた武器を持っていたことは事実である。より進歩した技術や、より発達した政治機構を持っていたことも間違いない。しかし、このことだけでは、少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民が暮らしていた南北アメリカ大陸やその他の地域に進出していき、彼らにとってかわった事実は説明できない。そのような結果になったのは、ヨーロッパ人が、家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌を、とんでもない贈り物として、進出地域の先住民に渡したからだったのである。(394~395頁)


2016年9月25日日曜日

【第624回】『ざっくり分かるファイナンス』(石野雄一、光文社、2007年)

 経営層に近い人々と仕事で一緒になるケースが増えてきたからか、企業を数値で表す話題が増えてきた。学部でも大学院でも会計やファイナンスを学んできたため、どこかで「数字を扱うのは得意」という意識があった。

 しかし、そうした意識が、会計や財務を学び直す必要はないという頑なな態度につながってしまっていたことに、遅ればせながら気づいた。なんのことはない、パッと数字を見てみても、その含意が分からないのである。これはまずいと思い、しばらくは改めて初歩から学び直す機会にしようと思った。

 その第一弾が本書である。基本に忠実に、薄い新書から選んでみた。基礎から学ぶという観点ではベストな一冊であった。

 会計とファイナンスとの違いについて、端的に二つを挙げている。一つ目は、会計は「利益」を扱い、ファイナンスは「キャッシュ」を扱う(14頁)という対象の相違である。二つ目は、会計が企業の過去の業績を扱うのに対して、ファイナンスは企業が将来において生み出すキャッシュフローという未来の数字を扱う(17頁)という時間軸の相違である。細かな内容について学ぶ前に、こうした大枠での内容を説明してくれる書籍というものは、入門書として大変ありがたい。

 貸借対照表における借方と貸方を整理した図3(22頁)も、極めて初歩的な内容ではあるが、だからこそ改めて質問しづらい部分であり、重宝しそうだ。

資金の運用

【資産】
流動資産
固定資産
【負債】
流動負債
固定負債

資金の調達
【資本】
資本金
剰余金


2016年9月24日土曜日

【第623回】『ビジョナリーカンパニー』(J・C・コリンズ J・I・ポラス、山岡洋一訳、日経BP出版センター、1995年)

 学生時代、企業組織に興味を持った理由にはいくつかあるが、本書を読んだこともその一つの重要なものであった。その後も何度か読み、久しぶりに読み直してみて、改めてそこに書かれているメッセージに呻らさせられた。

 重要な問題は、企業が「正しい」基本理念や「好ましい」基本理念を持っているかどうかではなく、企業が、好ましいにせよ、好ましくないにせよ、基本理念を持っており、社員の指針となり、活力を与えているかどうかである。(115頁)

 多くの日本企業において理念浸透が課題となってから約十年は経過している。そうした取り組みの中では、正しい企業理念や価値観といった観点で参加者から疑問や質問が出ることが多いようだ。しかし、「正しい」や「好ましい」といった発想ではなく、なんであれそれが実際的に働く上での指針となっているかどうか、という軸こそが重要なのであろう。多少の自己流の解釈やアレンジを許容しながら、社員が理念や価値観に親近感がわき、自分事として捉えて日常の仕事の中に活かしている、という状態をいかに創り出すか。ゼロから何かを生み出すというよりも、日常業務をデザインするという発想が私たちに求められているのであろう。

 企業が意図を持つのは、とてもよいことだ。しかし、その意図を具体的な行動に移せるかどうか、アメとムチを組み合わせた仕組みをつくれるかどうかが、ビジョナリー・カンパニーになれるか、永遠になれないままで終わるのかの分かれ道になる。(143頁)

 ではどのように日常の業務に落としこむかとなると、理念の唱和といったレベルの話では済まない。理念を活かすために、制度やガイドラインといったしくみをいかに創り込むことが重要である。さらには、そうしたしくみを華々しく導入するだけではなく、トップからいかなるレベルの社員に至るまで、日頃の地道な行動を促すものになっていることも必要だ。そのような地道な活動も含めたデザインとメンテナンスを担うのは企業におけるサポート部門の役割となるだろう。ただし、そうした役割を担うという自負とともに、自制心を持って部門の事象は部門で対応できるようにサポート役に徹することもまた求められる。

 管理職の仕事のなかでは、部下に配慮することがもっとも重要な部分だ。……人事部門はどんな理由があっても、各部門の人事上の問題を扱ってはならない。まともな管理職になるためには、人事に対する責任を受け入れ、人事の問題を自分で処理しなければならない。(358頁)

 HPの人事部門におけるポリシーについて述べた箇所である。各企業によって程度の差はあるだろうが、人時部門が全ての人事事象を担うべきではないのは間違いないし、だからといって部門に全てを委ねるということも現実的ではない。どのように部門のニーズを捉えて、どのように部門の管理者のサポートを行い、どのように経営に対してフィードバックするか。人事部門に求められる役割を今一度考えさせられる。


2016年9月23日金曜日

【第622回】『木に学べ』(西岡常一、小学館、2003年)

 法隆寺および薬師寺の宮大工棟梁を務めてきた著者による語りおろし。伝統を守り、そして伝統から学ぶプロフェッショナルの至言に満ちた、示唆的な一冊である。法隆寺と薬師寺を改めて訪れてみたくなった。

 道具というものもそんなもんでっせ。機械やないんや。人間の体の一部だとおもって使わなくてはなりませんな。
 ノコギリはその代表的なもんです。
 使ったら、ていねいに目を立ててやって、木の柔らかい堅いに合わせて、目の立て方を変えてやるんです。
 鉄と木だってそうです。木にぴったり合う鉄を使ってこそ、いい道具と言えるんです。(50~51頁)

 道具とは手段であり、何かの目標を達成するために対象物を思いのままに形作ろうとして道具を用いると考えがちだ。しかし著者は、対象に合わせて道具の使い方を柔軟に変え、あたかも私たちの身体の一部と思って大事に扱うことを述べる。イチロー選手が、グラブやバットを丁寧に扱い、自分自身の身体感覚を拡張するかのように扱っていることを想起させられる。

 わたしと一緒に法隆寺で仕事をした大工は六〇人ほどおりましたが、宮大工で残ったのは、わたし一人だけでした。みんな気張ってやっているんですけど、学ぼうという心がないと、ただ仕事をするだけになってしまうんです。「仏を崇めず神を敬わざる者は、伽藍、社頭を口にすべからず」という口伝があり、神道というもの、仏法というものを理解せねば、宮大工の資格がないということですな。(185頁)

 働くということを思い返させられる。忙しい時には仕事に没頭し、目の間にある業務をいかに効率的に遂行し、顧客に対してより良い品質のものを提供できるかに集中する。そうした時には、そこから何かを学ぼうという意志が欠落しがちになってしまう。しかし、そうしてしまうと目の前の業務をただこなすだけになってしまい、そこに存在する価値や学びに気がつかなくなってしまう。忙しい時ほど、立ち止まって、その価値や背景や学びについて考えてみたいものだ。


2016年9月22日木曜日

【第621回】『一般意志2.0【2回目】』(東浩紀、講談社、2011年)

 日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。(7頁)

 日本文化を称揚するばかりの書物にも辟易とするが、自らの文化を徒らに否定する言説構造も考えものだ。上記で描かれる著者の意思には、今の日本のリアリティを踏まえながら、清々しさを感じさせられる。

 特殊意志は方向をもっている。つまりベクトルである。しかし全体意志はスカラーの和にすぎない。(中略)ルソーは、一般意志を、そのような方向の差異をきちんと相殺した、別種の和として捉えようとした。「差異の和」とは、スカラーの和ではなくベクトルの和を意味するのだと理解すれば、ルソーの記述にはなにも曖昧で神秘的なところはない。(44~45頁)

 タイトルにもなっている一般意志について述べられた部分である。スカラーの和とは、つまりは多数決で現れる社会の意識である。他方、ベクトルの和とは、差異を顕在化させた上での総和を表したものであり、人々の意志の違いが大きな流れを生み出している。

 Googleにおける検索による社会的意識の顕在化では、記録されたものが集約されることによって効率化が進む。FacebookやTwitterといったソーシャルメディアでは、梅田望夫が喝破した「志向の共同体」が進み、意識しなければ価値が同一化された社会への閉じこもりが生じる。

 しかし、意識して自らをオープンにし、他者からのノイズを受け容れようとすれば、そうしたツールは私たちの社会をゆたかにすることも可能だろう。本書は、私たちに希望を与える書と言えるだろう。


2016年9月19日月曜日

【第620回】『定本 柄谷行人集 第2巻 隠喩としての建築』(柄谷行人、岩波書店、2004年)

 著者の書籍は難しいが、示唆的である。はっとさせられる言葉に出会った時の、心地よさを得られることができる。建築や言語にまつわる論評は読み手に様々なイメージを想起させる。

 建築は、イデアとしてのデザインが実現されたものだという考えほど、建築の実際からほど遠いものはない。それは、顧客との対話であり説得であり、他のスタッフとの共同作業なのだ。かりにデザインが最初にあったとしても、それは実現の過程で変えられていく。それは、ウィトゲンシュタインの言葉でいえば、やりながら規則を変えでっち上げていくようなゲームに似ている。(167頁)

 デザインという概念について考えさせられる。デザインとは、予め創作者が決めているものを形にしていくという文脈で語られることが多い概念である。しかし、ウィトゲンシュタインの言語ゲームを例示しながら、著者はそれを否定する。顧客や同僚といった多様な他者との相互交渉によって、デザインは磨き上げられるとしている。

 決まったものを粛々と形にするのではなく、ダイナミックに変化をたのしみながら形を作っていく。ジョブをデザインする際にも、キャリアをデザインする際にも、こうしたデザイン観で捉えていきたいものだ。


2016年9月18日日曜日

【第619回】『小説家の休暇』(三島由紀夫、新潮社、1982年)

 ものを書くことを職業とするプロフェッショナルが日記を書く場合、それは純然たる私的なものとなるのだろうか。私にはそうは思えない。どこかで他者の眼差しを意識したものになるのではないだろうか。他者を意識した日記であれば、それは芸術作品と呼ぶことができるだろう。それも一流の作家であれば、なおさらである。

 夏という観念は、二つの相反した観念へ私をみちびく。一つは生であり活力であり、健康であり、一つは頽廃であり、死である。そしてこの二つのものは奇妙な具合に結びつき、腐敗はきらびやかな心象をともない、活力は血みどろの傷の印象を惹き起す。戦後の一時期は正にそうであった。だから私には、一九四五年から四七、八年にかけて、いつも夏がつづいていたような錯覚がある。(8頁)

 学校の宿題以外で日記をつけたことがある人にはわかるだろうが、日記をつけるタイミングには何かがある。したがって、日記を書き始めた日の記述には、書き手の何らかの心的状況や想念が現れるのではないだろうか。上記引用は、著者の日記のはじめの日の前半部分である。夏という季節に対するイメージとして書かれたものは、彼の内面にある激烈な、そしてアンビバレントな感情を吐露しているようだ。生きることと、死ぬこと。決起によって熱く生きることを問いかけながら、それが受け入れられずに自死を選んだ彼の想念の萌芽が、ここに現れているというのは考えすぎであろうか。

 太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。(18頁)

 本作の中では何度か太宰批判が登場する。不勉強にも、そうした関係性を知らなかった身としては、この記述自体が面白い。美しい日本語を書き出す作者として、漱石と三島を好みながら、太宰もそれに準じて好んで読むのだが、その三島が太宰を嫌っているのだから、興味深いものだ。

 われわれはあと何十年かのあいだ、模索を重ねて生きるだろうが、とにかくわれわれは、断乎として相対主義に踏み止まらねばならぬ。宗教および政治における、唯一神教的命題を警戒せねばならぬ。幸福な狂信を戒めなければならぬ。現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性のほうが、(誤った理性であろうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。(116頁)

 日記の最後の記述である。なぜこのような考え方を持っていた人物が、あのような最期を遂げることになったのか。全くもって解せず、寂しい感じを持ってしまう。