2016年9月18日日曜日

【第619回】『小説家の休暇』(三島由紀夫、新潮社、1982年)

 ものを書くことを職業とするプロフェッショナルが日記を書く場合、それは純然たる私的なものとなるのだろうか。私にはそうは思えない。どこかで他者の眼差しを意識したものになるのではないだろうか。他者を意識した日記であれば、それは芸術作品と呼ぶことができるだろう。それも一流の作家であれば、なおさらである。

 夏という観念は、二つの相反した観念へ私をみちびく。一つは生であり活力であり、健康であり、一つは頽廃であり、死である。そしてこの二つのものは奇妙な具合に結びつき、腐敗はきらびやかな心象をともない、活力は血みどろの傷の印象を惹き起す。戦後の一時期は正にそうであった。だから私には、一九四五年から四七、八年にかけて、いつも夏がつづいていたような錯覚がある。(8頁)

 学校の宿題以外で日記をつけたことがある人にはわかるだろうが、日記をつけるタイミングには何かがある。したがって、日記を書き始めた日の記述には、書き手の何らかの心的状況や想念が現れるのではないだろうか。上記引用は、著者の日記のはじめの日の前半部分である。夏という季節に対するイメージとして書かれたものは、彼の内面にある激烈な、そしてアンビバレントな感情を吐露しているようだ。生きることと、死ぬこと。決起によって熱く生きることを問いかけながら、それが受け入れられずに自死を選んだ彼の想念の萌芽が、ここに現れているというのは考えすぎであろうか。

 太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。(18頁)

 本作の中では何度か太宰批判が登場する。不勉強にも、そうした関係性を知らなかった身としては、この記述自体が面白い。美しい日本語を書き出す作者として、漱石と三島を好みながら、太宰もそれに準じて好んで読むのだが、その三島が太宰を嫌っているのだから、興味深いものだ。

 われわれはあと何十年かのあいだ、模索を重ねて生きるだろうが、とにかくわれわれは、断乎として相対主義に踏み止まらねばならぬ。宗教および政治における、唯一神教的命題を警戒せねばならぬ。幸福な狂信を戒めなければならぬ。現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性のほうが、(誤った理性であろうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。(116頁)

 日記の最後の記述である。なぜこのような考え方を持っていた人物が、あのような最期を遂げることになったのか。全くもって解せず、寂しい感じを持ってしまう。


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