2016年9月17日土曜日

【第618回】『文章読本』(三島由紀夫、中央公論新社、2004年)

 偉大な作家が、小説・評論・戯曲・翻訳などの日本語の文章について論じた本書。贅沢な解説に思わず唸らせられる。

 われわれが漢訳の外国語によって得たものは、概念の厳密さよりも、その概念を自由に使いこなす日本的な柔軟性をわれわれのものにしたというにすぎません。ここから概念の混乱が起り、日本人の思考の独特な観念的混乱が生じたのであります。(37頁)

 著者をして、日本語は厳密な概念定義に基づく言語ではないとしている。厳密さの代わりに、外国語を受け容れ、自分たちの文化に根ざしたものへと柔軟に取り込むということを私たちは行なえたのである。それが故に、概念的な混乱が生じたという側面もあるが、他者や他文化を受け容れるしなやかさを磨き上げてきたと捉えることも可能なのではないだろうか。

 結局、文章を味わうということは、長い言葉の伝統を味わうということになるのであります。そうして文章のあらゆる現代的な未来的な相貌のなかにも、言葉の深い由緒を探すことになるのであります。それによって文章を味わうことは、われわれの歴史を認識することになるのであります。(48頁)

 こうして、文章を味わうという行為は、ある言語の歴史、すなわち民族の歴史を味わうということと同じことを意味すると著者は述べる。新しい言葉は常に生み出されるが、それはこれまでの言語体系の中で生み出されるものであり、あまりにこれまでのものとかけ離れたものは廃れてしまう。過去から連綿と紡ぎ出されてきた言語を知ることは、その民族や国家の歴史を知ることと同じなのであろう。

 もしかりに「彼女は眼が二つあって鼻が一つあって、口が一つあった」という外貌描写があったとしたら、ユーモア小説でないかぎり、あなたは吹き出してしまうでしょう。そこで小説家のごく普通のやり方としては「彼女の眼は美しかった。鼻は形がよく、小鼻がすぼんでいるのが貧しそうな感じを与えたが、それがえも言われぬ清らかな、つつましさを感じさせた。小さめな口からは子供っぽい小さく並んだ形のよい健康な歯がのぞいていた」という具合に書きます。これを読む読者は彼女の顔がわかったような気になりますが、実は少しもわかっていないのであります。ためしにその顔を絵に描いてみたら、どんな顔になるか見当もつきません。大体、目の美しさなどというものは主観のちがいもあり、それをどう描写してみても描写しきれるものではありません。しかし小説の利点は前にも申しましたように、読者の想像力を刺戟していつも想像力の余地をのこして、その余地でもって作者の思うところへ引っぱって行こうという技巧なのであります。(133頁)

 上記の箇所を読んで、目から鱗が落ちる思いであった。たしかに、私たちが描く何らかの理想の姿というものは、私たち個人にとって主観的なものであり、人によって思い描くものは異なる。したがって、理想の姿であることを明示してしまえば、読者はそれぞれ、自分にとっての理想の姿を勝手に描き出してくれる。もし客観的な事実を多様な側面から描き出せば出すほど、読者は、自身の想像との違いによって離れていく。だからこそ、小説を映画化した際に、少なからぬファンが、「このような作品ではなかったはずだ」と幻滅し、否定的な意見を述べるのであろう。


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