私が本書に出会ったのは2005年頃であった。社会学というものに興味を持って好んで読んでいたが、「社会学」とはどのような学問なのか、という本質について考えることがなく全く分かっていなかったように思う。社会学の実質的な創始者の一人と言われるジンメルを扱った本書を読み、私たちが「社会」を眺める上での視野の拡がりを社会学という学問を与えてくれることを感じた。企業組織で働く個人について研究しようとして修士に入る上での研究計画書を書いた時には、社会学的なアプローチを試みようとして本書を参考にした。試行錯誤の結果、最終的には心理学的なアプローチで論文を書き上げることになったが、社会学的な視座は頭の中では持っていたつもりである。
昨年末、苦楽を含めて刺激的だった修士課程を過ごした母校を訪れた際に、恩師の一人が本書をデスクに置いていたのを見つけて会話をした。これが今回改めて本書を読もうと思った直接的なきっかけである。学生にとってジンメルの書籍を最初から読むのは難解であるため、この本が適したテクストであるとのことだ。私自身、ジンメルを読もうとして挫折した経験があるので、本書をもう一度読んでみたのである。
本書は、ジンメルの社会学の要諦を解説する前半部分と、彼の視座を持った上で現代社会の具体的なテーマを扱う後半部分とから構成される。まずは前半部分、すなわちジンメルの社会学について見ていこう。
ジンメルの<相互作用論的社会観>の特徴とは、社会を<すでにそうであるもの>という既成的・実体的なものとしてとらえるのではなく、<いま・ここでそうなっていること>という出来事のプロセスにおいてとらえるということにあるといえる。(36頁)
身分が固定的で、情報共有の範囲が限定的で、技術変化が緩やかな近代社会以前の状態は、それ以降の時代と比べて静的な社会であった。そうした社会においては、社会をア・プリオリな所与の要件としていかに生きるかということが人々にとってのテーマであっただろう。それに対して、ジンメルが近代社会を眺める際に、多様な関係性の中で社会が再構成され続けるという動的なイメージを取り上げた。そうした近代以降の社会観においては、社会とは動的なプロセスとしての現象となる。
ジンメルは、近代を構成する前提条件を指摘した上で、その臨界点をも併せて指摘している。まずは前者について触れてみよう。
たしかに人間は有史以来、「社会」を為して生きてきた。しかし名もなきふつうの人々ーーつまり大衆ーーがはじめて、自分たちの生活のスタイルや慣習やモラルを「社会的なもの」として意識し、自分の固有の「生」に対する条件として社会を理解しようとしたこと、これが社会学の成立を支えている。これは第一に「身分」による違いを認めず「平等」の観念が根づいてきたこと、そしてその結果、「自由」という価値観が大衆のなかに浸透していくことを背景にしている。(54~55頁)
大雑把にまとめてしまえば、近代を構成するものは、身分制の解体に伴う平等という概念と、社会への関与の度合いの向上に伴う自由という概念との二つであると言える。この二つの概念が成立することで、静的な社会から動的な社会へ、すなわち前近代的状況から近代へと移行する。これはなにも「進歩」ではなく、時代の移行であり、したがって限界もまた見定める必要がある。
客観的・絶対的真理そのものの追求をどんなにめざしても、人間の知とは人間の意欲と感情によって定められた価値関心によって限界づけられる。したがって観点や方法の制限を受けない知的営為というものは存在しない。科学によって客観そのもの真理そのものに到達することをめざすことは不可能だということになる。 しかし、こうした考え方は客観という概念あるいは真理という概念を放棄すべきだということを意味しない。そうではなく、客観の絶対性や絶対的真理に到達できるという認識態度をジンメルは批判するのである。(52頁)
ここで述べられているのは、近代社会における本質的に自由で平等な人々を束ねる基準となるべき客観性・絶対性の限界である。むろん、著者が指摘しているように、そうした概念が近代社会において害悪だということではない。しかし、客観性や絶対性を志向しようとしても、そこには個人の主観性や多様性が介在されることを無視してはいけない、ということである。こうした主観性や多様性が客観性や絶対性と綯い交ぜになり、動的に社会を捉えることがジンメルのもたらした新しい視座と言える。
ジンメルの<相互作用論的社会観>は、人間と社会を全く対立した非親和的なものとしてとらえるのではなく、人々の日々の関係の営みが社会を作りあげ、そしてそうした社会の全体的性格から人々が影響を受けながら行為を繰り広げる姿を浮き彫りにしようとする社会観なのである。(61頁)
したがって、社会と個人とは相互依存関係にあることになる。個人と個人との相互作用が社会を構成し、その絶え間ざるダイナミックなプロセスの結果として形成される社会もまた、翻って個人へと影響を与えるのである。したがって、そうした社会においては、個人もまた絶え間ざる変化のプロセスを受容する必要がある。
社会が全体的制度として個人の「生」に物象的な客観物として外側に対立しているという事態だけを指すのではない。実は社会と個人の対立は「個人そのものの内部」で起こっていることが問題なのだ。(中略) 人間はさまざまな複数の社会的役割を担って生きる存在である。(中略)問題はそうした役割の一つひとつは、人間の能力や意欲を丸ごと要求したり実現したりするものではなく、そうした諸力のごく一部を要求するものが多い。しかも身に帯びる役割が相互に矛盾し、異なる性格の要求が一個人に複数つきつけられることも多い。(75頁)
ここで著者は、個人という内側とその外側にある社会という対立概念を覆す。すなわち、個人の内部において、個人と社会との相互作用が起こっていることが時に問題を生んでいると指摘しているのである。家庭における私、職場における私、旧友との間にいる時に私、共通の趣味を通じたネットワークにおける私。それぞれにおいて求められる役割は異なり、「私」を一つのものに限定することはできない。
全体としての社会はあくまでその部分的手足としての役割を個人に期待する。しかし、個人もまたそれ自身で自分の多様な諸能力を活かそうとする<全体的存在>であるとする。「全体性」「統一性」に対する個人の欲求が社会との葛藤を生み出す。(77頁)
したがって、私の内側において、複数の社会が求める複数の「私」が相克し、内的同一性を持てないことに苦労することが多いのが近代以降の社会に生きる個人である。このように書かれると多様な内的個人ということについてネガティヴな印象を持たれる方も多いだろう。しかし、複数の社会的役割を内的に持つこと、そうした内部に多様な役割意識を持つ個人が複数集まることによる動的作用、その結果として社会と個人とが相互作用を与え合う関係性、をたのしめるという効用もあるのではないだろうか。
以下の後半部分では、ジンメルの相互作用論的社会観から鑑みて、現代における個別のテーマをどのように見通すことができるかについて扱っていく。四点ほど具体的なテーマを扱った後に、著者が述べるジンメルをもとに現代社会へどう捉えるかという展望を最後に取り上げたい。
まず第一に、「自分探し」という現象について。
「自分探し」には多くの場合は、「ほんとうの私」をほんとうにわかってくれる他者を求めることが同時に生じることが多い(中略)。したがって「ほんとうの自分」探しと「ほんとうの自分」をわかってくれる他者探しとは表裏一体なのである。(90頁)
近代以前においては自分自身のアイデンティティーは所与のものであって、自分自身とはなにか、ということを考えさせられる機会は少なかった。しかし、近代になると、自分自身がなにものなのかという認識は常に変化をし、自分自身の中にも多様な「私」が存在し、それらもまた変化を遂げる。したがって、多様な自己、変化する自己を受容できない場合にはストレスを感じ、多様な「私」という前提を否定して、浅薄な「自分探し」へと至ってしまう。こうした狭義の「自分探し」では、「ほんとうの私」というイデアのようなものを想定し、それを他者が認めてくれることを欲する。したがって、「自分探し」とは「ほんとうの自分」を理解してくれる他者探しであり、つまりは他律的なアイデンティフィケーションとなることに注意が必要だろう。
「私をほんとうに理解してくれる他者」ということで、人はややもすると、他者性を全くもたない存在を求めてしまいがちだ。しかしそうなると、人は社会関係をうまく営めなくなる危険に陥りがちだ。なぜなら人間は関係の原理としてそうした他者性を排除して、他者との関係を作ることはできないからである。(94頁)
「自分探し」が「他者探し」に堕すると、自分自身を完全に分かってくれて一心同体になってくれる存在を求めてしまう。しかし、たとえ親子の間ですら、すべての人格や特質を認め合うことができないのに、他者性を全く排除した関係は不可能であろう。したがって、「他者探し」の果てに、自己肯定感を得ることができなくなり、他者への過度な依存や、他者への依存が得られない場合には他者との関係断絶を選択することになる。
社会をその<多元性><複数性>において理解すること。私たちの「生」が体験するのはさまざまな諸社会であり、決して単一の実体としての社会ではない。(中略) 社会にとって個人は常に期待される行為の担い手としては社会の要素でありながら常にそれ以上の可能性(あるいは過剰性といった方がいいかもしれない)を身に帯びている。個人からすればどんな社会(的相互作用)も常に一定の規範性を帯びた役割の遂行を期待しており、その意味でその人そのもの(の個性的人格)を丸ごと認めてくれるような社会は存在しないということだ。(119~120頁)
したがって「他者探し」に安易に走るのではなく、社会の複雑性と個人の多様性について私たちは理解することが先決だ。すべてを理解し合うことは不可能であるが、すべてに対して相容れないという事態もまた、存在しないのではないだろうか。個人の多様な社会的役割や価値観の一部について認め合い、関係性を変化させるという、「明らかに極める」という仏教における意味での健全な「あきらめ」の態度が私たちに求められている。
「ほんとうの私」に少しでもたどりつくためにも、<私>はどのようなかたちで他者や社会とつながりたいと考えている人間なのか?どのようなかたちでつながること(あるいは距離をとること)を心地よいと考える人間なのか?ということをよく吟味することが大切になると私は思うのだ。(123頁)
多様な価値観を内包する主体どうしがつながるのであるから、個人と個人の関係性における適切な距離や関係構築の方法がある。こうした距離や方法についても、異なる個人間の関係性であるから、自分自身のその場にあった流動的な最適解が存在することにある。即興で柔軟な対応が求められるという意味では、求められるコミュニケーションのレベルが上がっていると言えるだろう。
では、いかに適切な距離を設けるか。著者が第二の個別テーマとして設ける秘密にそのヒントがあるようだ。
距離がゼロという「融解集団」的な人間関係は、たとえ親密な関係においても理想状態として想定することはできない。というよりも理想状態として想定すること自体が大きな危険をはらんでいる。たとえば私を理解してくれる人はだれもいないといった絶望は、<私のすべてを受け入れ、すべてを理解してくれる>他者を求める過剰な期待による場合が多い。むしろ、<私のすべてを受け入れ、すべてを理解してくれる他者>なんてどこにもいないことをしっかり自覚して、適度な距離があり、お互いの「秘密」を前提とした人間関係においてこそ互いを慮ったり、想像力を働かせることで<相互の関係を深く味わう>ような親密な社会関係の形成が可能になるといった発想の転換が必要だ。(153~154頁)
すべてを理解し合っている状態というのは存在し得ないものであるし、かつ存在したとしても発展可能性のない関係性である。未来永劫お互いを理解し合うためには、静的な個人、静的な関係性、が条件となるからである。そうではなく、ある程度の距離を保ち、他者には知らない部分があり変わり得る部分がある、と思うことが、他者への配慮の気持ちであったり、可能性への期待という関係性をより良くできるのではないか。そうした状況を「深く味わう」という著者の言葉が言い得て妙だ。
第三に、競争について。
競争や闘争そのものを否定するのではなく、どのような種類の競争や闘争を私たちは批判し、なくしていかなければならないか?というかたちで現実の問題は考え直されなければならない。そしてそのことが<私>の立場から社会の問題につなげて考えていく道筋を失わない社会認識の深まりを可能にするーーそのようなある種の<リアリズム>の立場に立った競争や闘争への理解・分析がこれからますます必要になることは明らかだろう。(187頁)
自由で平等な個人を前提にすると自由主義経済という考え方が主流になる。それに伴うメガコンペティションやグローバライゼーションは時に否定的な文脈で捉えられ、その指摘が正しいことも多い。しかし著者によれば、ジンメルは必ずしも闘争や競争を否定していない。どのような競争や闘争を是とするかは、これまで見てきた多様な社会・多様な個人という前提で考えれば、状況や個人にとって異なる。何かを押し付けるというような絶対的な態度ではなく、柔軟に競争や闘争を一つのツールとして用いられるようなしなやかな態度が私たちや社会を健全にしていく。
第一・第二の点で述べた距離感覚と、第三の競争とを組み合わせ、第四のテーマとしてあげられているのが貨幣である。
貨幣的関係に広まることによって、内面的なもの、プライベートな感覚の確保が可能になったと、ジンメルは考えている。近代以降、貨幣的関係を経験したことにより、人間はほかの人との間の距離の感覚をもてるようになった。(中略)だが同時に、貨幣が帯びる圧倒的な力は、人びとが貨幣に対してきちんと冷静な距離をとることを非常に困難にするという危険がある(=「貨幣物神」化という危険)(211~213頁)
他者との適切な距離感をおぼえるための一つのツールとしての貨幣の可能性について言及される一方で、その危険性もまた指摘されている。世界をまたぐ経済活動の基底としてゆたかな生活を送る可能性を有する貨幣とともに、貨幣物神化とも言える一部の金融工学の悪用の手段ともなり得る貨幣。「人間は貨幣に対してだけは貨幣的態度(=対象を客観化し距離化する態度)をとることが困難である」(213頁)というジンメルの警句を私たちは充分に噛み締めるべきであろう。
では最後に、ジンメルの社会学を現代の社会を生きる私たちはどのように活かせば良いのであろうか。
モダンが進行し、私たちの社会は、「高度情報化社会」、「消費化社会」として習熟すればするほど、そうした他者への配慮の感覚はますます高度に要求される。なぜなら、ハイ・モダニティとしての現代社会においては、「身分」や「共同体的規範」といった<行為のマニュアル>を準備してくれる社会的属性はほとんど無効化しており、人びとは自分たちのコミュニケーション能力を頼りに身近な人びととの親密な関係の形成とその場における他者からの承認を得る必要があるのだ。(226頁)
まず著者は、現代を近代の延長として捉え、近代の後に現代(ポスト・モダン)があるという境界を前提としていないことに注意するべきである。社会が固定的に個人のアイデンティティーを規定せず、情報化や消費化によって変化の速度と幅が拡がっているために、自分の力でアイデンティフィケーションし、関係性を常に耕すことが求められる。したがって、多様な他者を前提にして配慮の感覚を磨くことが肝になるのである。
ジンメルの相互作用論とモダン文化論を基点とすることで、私たちは、<弱い現代的主体>である自分たちのもろさを否定するのではなく、そこからお互いの<つながり>を考えていくことができるのである。(233頁)
社会からの要求水準が高まっているのだから、自分自身がそこに対応できないことはいわば当たり前だ。要求水準の高まりに対して自覚していないと、徒にもろい自分に傷つき、傷つく事を恐れて他者との関係性を築く努力を恐れてしまう。弱い存在である自分に気づき、認めること。これが、ジンメルが現代に生きる私たちに与えてくれたアドバイスである。
『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
『不可能性の時代』(大澤真幸、岩波書店、2008年)
『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)
『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)
『不可能性の時代』(大澤真幸、岩波書店、2008年)
『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)
『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)
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