著者が一貫して無宗教を是認するのは、宗教が時に害悪を為すという考え方によるものである。つまり、特定の宗教を信じる者と信じない者との間に生じる緊張関係であり、対立である。
ジョン・レノンとともに、宗教のない世界を想像してほしい。自爆テロリスト、九・一一[世界貿易センタービルがイスラム教徒の飛行機テロで崩壊した日]、七・七[ロンドンで同時多発テロが起きた日]、十字軍、魔女狩り、火薬陰謀事件[一六〇五年に英国でカトリック教徒が起こした政府転覆未遂事件]、インド分割[イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立に起因する]、イスラエル/パレスチナ戦争、セルビア人/クロアチア人/イスラム教徒の大虐殺[旧ユーゴスラヴィアにおける]、キリスト殺しのユダヤ人迫害、北アイルランド紛争、「名誉殺人」[一族の名誉を汚した人間を殺すというイスラム教圏の風習]、ふっくらさせた髪型でキンキラの服を着て、騙されやすい人々から金を巻き上げるテレビ伝道師(「神はあなたがひたすら捧げることを望んでおられます」)、それらすべてが存在しない世界を想像してみてほしい。太古の仏像を爆破するタリバンのいない、冒涜者を公開斬首することのない、女性が肌をほんのわずか見せたという罪で鞭打たれることのない世界を想像してみてほしい。(10頁)
著者は具体的な事例を畳み掛けるように示すことで、宗教の非寛容性を主張する。とりわけ、信じる対象が異なる者どうしが対立するのは、構造上いたしかたがないようにも思える。W杯やチャンピオンズリーグにおける国と国との対戦やチームどうしの対戦は必然的に人々を熱狂させるものであり、虎党とG党とが対立するのは宿命なのだろう。宗教をこうした装置として捉えた場合、「ではなぜ宗教は必要なのか」という著者が投げかける疑問には理解可能な部分があるようだ。
著者は主に以下の三点から、宗教の意義を否定する。第一に、神の非・存在である。
全知と全能が相互に両立しえないことは、論理学者たちに気づかれずにすみはしなかった。もし神が全知であれば、その全能を用いて歴史の進路を変えるためにどのように干渉すればいいかをすでに知っているはずである。しかし、そのことは、神がその干渉の仕方を自分で変えられないことを意味し、そうであれば全能ではないことになる。(118頁)
よく「全知全能の神」という表現がなされる。この概念の論理矛盾に著者は噛み付いているのである。現在および将来の事象について神が何もかも知っている(全知)のであれば、何らかのアクションを取ればいいのにそれを取らないということは、全能ではないということである。他方、思ったことは何でもできる(全能)のであるとしたら、適切なアクションを取れていないのは何をするべきかについて無知であるからということになる。つまり、完璧でない社会や世界という現状からリバース・エンジニアリングすれば、論理学的には、WHAT構築(全知)の完璧性とHOW遂行(全能)の完璧性との両立はあり得ないのである。
第二に、道徳に関わる実験に対する、信仰を持つ方と持たない方との対応をもとにした考察を取り上げたい。
ハウザーは、信仰心の篤い人々と無神論者とでは道徳的直観がちがうのかどうかという疑問も発している。確かに、もし私たちが道徳性を宗教から得ているのであれば、ちがっていなければならない。しかし、どうもそうではないように思われる。ハウザーは倫理学者のピーター・シンガーと共同で、三つの仮想的なジレンマに焦点を絞り、無神論者の判断と信仰心の篤い人間の判断を比較した。(中略) ハウザーとシンガーの研究から得られた主要な結論は、こうした判断において、無神論者と宗教を信じている人々のあいだで統計的に有意な差は存在しないというものであった。(329~330頁)
道徳的にジレンマを覚える思考実験とは、サンデルの白熱教室でも取り上げられた、自分の判断で誰かを助ける代わりに他の誰かが死ぬという究極の意思決定が求められる場面を仮想的に用いた実験である。著者の仮説はこうだ。宗教がそれを信じる人々に対して道徳的な価値観を付与するという影響を持つのであれば、上記の思考実験の結果において宗教を信じる人々と無神論者との間で有意な差があるはずだ、というのである。しかし、そこに統計的に有意な差異が存在しなかったという実験結果から、信仰は価値観を付与しない、と結論づけているのである。
第三は、やや趣味が悪いとも言われそうな実験だ。
一六八人の別のイスラエルの子供の集団に「ヨシュア記」からとった同じテキストが与えられたが、ヨシュアという名前が「リン将軍」に、「イスラエル」が「三〇〇〇年前の中国の王国」に置きかえられていたのだ。すると、結果は正反対になった。つまり、わずか七%だけがリン将軍の振る舞いを是認し、七五%が不同意だった。言い換えれば、ここで得られた数字からユダヤ教への彼らの忠誠心を取り除けば、このイスラエルの子供たちが示した道徳上の判断は、大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致するのである。ヨシュアがしたことは、野蛮な大量虐殺という所業である。しかし、宗教的な視点からはまったくちがったものに見える。そして、この区別は人生の早い時期に植えつけられる。大量虐殺を非難する子供と容認する子供のあいだのちがいをつくるのは、宗教だったのだ。(375~376頁)
ある行為が自身の信じる宗教や所属する社会における文脈では認められるのに対して、全く同じ行為が異なる文脈では許しがたい行為として認識される。そうした認識の装置は、判断能力が低い幼い頃に植えつけられるとして著者は警鐘を鳴らしている。あまり趣味が良いとは思えないが、ここでの実験結果が示唆する点にまで目を瞑ることは適切ではないだろう。
宗教という文化や文明との固着性の高い社会的・自然的な装置に対して、結論を急ぐ必要はない。まずは次回、ドーキンスの本書への反論を述べたと言われるイーグルトンの『宗教とは何か』を扱うこととする。
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