2014年1月18日土曜日

【第242回】『若者と労働』(濱口桂一郎、中央公論新社、2013年)

 著者の書籍は好んで何冊か読んでいるが、どれも日本における労働環境を法的観点から分かり易く書かれている。行政府出身の方らしい観点で、日本企業における労働問題をマクロで捉え、他国との比較に基づきながらの考察は論理的かつ緻密であり簡潔にして読み応えがある。

 日本では、会社というのは「社員」という「人」の集まりだが、その「社員」というのは英語でいうエンプロイーのことを指す、と。つまり、初めに「人」ありき、というときのその「人」は、会社のメンバーである「人」という意味なのですね。初めに「メンバー」としての「人」ありき、という意味で、これを私は「メンバーシップ型」と呼ぶことにしました。欧米においては会社のメンバーなどではあり得ないエンプロイーが日本では会社のメンバーになっているということ、そしてそのメンバーに仕事を当てはめるというのが日本の仕組みであるということを一言で表現する言葉として、なかなかよくできているのではないかと思っています。(37頁)

 欧米の企業では、ジョブに求められる職務要件を明らかにし、その職務要件を満たす人材を市場から調達するというジョブ型の人事が行われる。それに対して、日本ではジョブではなく人ありきでのメンバーシップ型が取られていると著者はしている。すなわち、ジョブ型では人材は入れ替え可能であり、その所属する場所は会社というよりも市場という印象が強いのに対して、メンバーシップ型では人材は会社に属し、会社の一員という意味合いでの「メンバー」なのである。人事管理論でいうところの、職務型の欧米企業に対する、職能型の日本企業という対比構造として捉えれば分かり易いだろう。ここで著者が射程に置いているのは日本で事業を行う内資系企業に限定され、日本で事業を行う外資系企業はここでいうところの「日本企業」ではないという点は自明であろう。以下では、著者が述べる日本企業とは前者を指すものとご認識いただきたい。

 重要なのはどの契約類型であっても、一方が労務を供給し、他方がそれに対する報酬を支払うという点で、何の変わりもありません。(中略)雇用契約は法律上においてはメンバーシップ契約ではないのです。 日本の現実はメンバーシップ型で動いているけれども、日本の法律は欧米と同様のジョブ型社会を前提に作られている。(50~51頁)

 企業実務と法政策におけるズレが端的に述べられている。労働法とは本来、その上位法である民法が想定する欧米的な契約社会と日本社会とのズレを踏まえた上で、社会的な要請に応じて現実に適用させる下位法であるはずだ。しかし、法の根幹を為す思想の部分から本質的なズレがあるという指摘は興味深い。では、どのようにそのズレは修正されているのであろうか。

 日本の裁判所は、さまざまな事件に対する判決を積み上げる中で、解雇権濫用法理や広範な人事権法理など、判例法理といわれるルールを確立してきました。それは、ジョブ型雇用契約の原則に基づく法体系の中で、現実社会を支配しているメンバーシップ型雇用契約の原則を生かすために、信義則や権利濫用法理といった法の一般原則を駆使することによって作られてきた「司法による事実上の立法」であったといえます。(69頁)

 立法の不作為を司法が修正するための判例法理の蓄積による是正。良くも悪くも、日本社会における典型的なパターンの一つであろう。労働環境における判例主義の功罪については以前のエントリーを参照いただきたい(『人事と法の対話』(守島基博・大内伸哉、有斐閣、2013年))。著者が挙げている、ジョブ型の法制度をメンバーシップ型の運用へと是正しようとしている典型的な判例を二つほど以下に挙げてみよう。

 特定のジョブにかかる労務提供と報酬支払の債権契約ではあり得ないような、メンバーシップ型労働社会における「採用」の位置づけです。それは、新規採用から定年退職までの数十年間同じ会社のメンバーとして過ごす「仲間」を選抜することであり、その観点から労働者の職業能力とは直接関係のない属性によって差別することは当然視されるわけです。(73頁)

 まずは、採用の判例としても極めて有名な一九七三年の三菱樹脂事件の最高裁判決の意義を簡潔に著者が述べたものである。要するに、解雇や退職といった出口の厳格な制限を促すメンバーシップ型の運用においては、その代償として採用という入口における企業への制限を緩くしようということである。出口の厳しさと入口の緩さというバランスは、メンバーシップ型の趣旨から鑑みると合理的な運用であると言えるのではないだろうか。

 整理解雇四要件の一つとされる解雇回避努力義務の中には、時間外・休日労働の削減というのが含まれています。ということは、いざというときに残業を減らして対応できるように、平常状態ではいつでも残業をやっているようにしておいた方がいいということです。もし、労働基準法の原則どおりにいつもは残業ゼロで回していたりしたら、いざというときに対応のしようがありません。(92頁)

 第二は、残業の運用である。人事の実務家であれば決して口に出せないことをずばりと著者が指摘している部分である。メンバーの雇用を優先して守るために整理解雇を行うことも制限するというメンバーシップ型の大命題を守るためには残業時間を調整要件にすることを判例では謳われているのである。従業員の心身面の健康という点では問題もあろうが、こうした柔軟な運用が現場の人的リソースの柔軟性を支えている。

 労働社会全体としては日本型雇用システムが変容していき、「社員」の範囲が縮小するようになっていって初めて、それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が、それによって「社員」の世界に入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってきた、というのが九〇年代以降の実相なのではないかと思われます。(131~132頁)

 戦後において大企業を中心に形づくられてきたメンバーシップ型の人事のしくみは、経営が厳しくなるとメンバーになる要件を厳しくせざるを得なくなってきている。その結果が、雇用のミスマッチとも言われる新卒入社者へ求める要求水準の高まりである。欧米型のようなジョブ型ではなく、メンバーシップ型において要求水準が高まるということは、言葉にしづらい人間力という包括的な概念とならざるを得ない。そうした概念をもとに採用を選別されるとなると、表面的なコミュニケーション能力を判断材料にせざるを得なくなっているというのが現在の実情ではなかろうか。人間力をコミュニケーションで測るために、ある企業の選考に落ちることが自分の「人間力」の否定、すなわち人間性の否定と結びつけて誤解されてしまうのである。

 こうしたメンバーシップ型の人事制度の限界に行き着く中で、著者はジョブ型正社員という概念を持ち出す。端的に言えば、労働条件の柔軟性を担保した正社員でありながら中長期的にジョブにマッチさせるというジョブ型を統合させるものであると言えるだろう。こうしたジョブ型正社員を生み出すしくみとして、ドイツで行われているデュアル・システムが参考になるとしている。

 今後社会の中にジョブ型正社員が次第に増えて行き、教育と職業の関係をより密接なものにしていこうとするならば、その将来像の一つとしてドイツ型に近い真の日本版デュアル・システムを構想していくことが求められるように思います。 ドイツのデュアル・システム(中略)は(中略)、高校や大学の教育と企業現場の実習を半端でなく、同じくらいの分量で組み合わせるものです。高校の三年間、毎週の週日のうち三日間は学校に通って基礎科目や職業科目について勉強をし、残りの二日間は企業現場に通ってそこの管理者や先輩労働者に教わりながら実際に作業をやって、職業技能を身につけていくというパートタイム型もあれば、数か月間は学校に通って勉強をし、次の数か月間はずっと企業現場で作業をするというブロック型のやり方もありますが、いずれにしても、座学と学習の両方ともずっしりと思い大変本格的な「組み合わせ方」なのです。 今までの日本ではスキルのない若者を「人間力」で採用して、企業現場のOJTで鍛え上げていくというやり方をするところを、いわば学校教育段階に大幅に前倒しして、パートタイムの生徒や学生であると同時に企業のパートタイム労働者でもあるという形で職業教育訓練を遂行する仕組みと考えれば、本質的に共通する部分もあることがわかります。(269~270頁)

 職業教育を担う主体は、学校と企業の双方にあると述べられている。入社段階で求められる人材スペックが上がるのであれば、入社前に職業観を涵養しておくことは必要であるし、そのために職業経験を持つことは必要であろう。ここで課題となるのは、入社前における職業経験を、自身の職業観へと抽象化することを、現在の企業や学校では担えないということである。企業のラインではそこまでのリソースを提供することはできないであろうし、学校の先生のほとんどは企業での勤務経験がないはずだ。たとえば、企業のHRにおける教育部門や、HRのコンサルタントがこうした橋渡しをできるように雇用契約等のインフラを整備することも考えるべきかもしれない。


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