2014年1月19日日曜日

【第243回】『シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代』(梅田望夫、中央公論新社、2009年)

 将棋を指すではなく、将棋を観る。しかも、シリコンバレーから。本書は、ネットで将棋を観賞することについて述べられたものである。

 テロが起きても、戦争が始まっても、世界経済が音を立てて崩れようとも、私たちは、毎日の生活の潤いや楽しみを求めて、音楽を聴いたり、小説を読んだり、野球を観たりしながら、精神のバランスをとって、したたかに生きていかなければならないのだ。文化は、その時代が厳しくなればなるほど、人々の日常に潤いをもたらす貴重な役割を果たすものなのである。(144頁)

 文化とは、生活をゆたかにするものであり、日常をしたかかに生きるためのものである。そして、将棋とは、日本の文化である。指せなければ将棋をたのしむことはできないと思われがちであるが、将棋を観賞することの意義を著者は述べる。日本の文化たる将棋界を推進する一人が羽生善治さんであることに異論はないだろう。羽生さんの将棋に対する考え方は、文化の推進者たるにふさわしい。

 「すべての戦型を網羅して全十巻」というところにオールラウンドプレイヤー指向の羽生の真骨頂がすでに出ていたわけだが、より本質的なのは、羽生の「その段階で持っている知識はすべてオープンにする」という過激な思想であった。(40頁)

 ここで著者が引用しているのは、羽生さんが将棋のメジャータイトルを独占して世間の話題となるより数年前の、若手の第一人者として活躍し始めた時代の著書からである。将棋のプロの世界は、他のプロとの真剣勝負の連続である。ゼロサムゲームであるために、将棋においても自分自身の手の内をさらけ出すことは得にはならない。しかし、羽生さんは自分自身が理解し得ている知識を進んでアウトプットしたのである。アウトプットした数年後に、七つのタイトルすべてを取得したのであるから、知識を共有し将棋の持つ可能性を高めることと、自身が勝負に勝つことを両立させたのである。勝負を不利にするリスクを冒してまでなぜ、彼は将棋界を前に進めるようとしたのか。

 厳しいながら、権利のない世界のほうが進歩が加速する。だから、進歩を最優先事項とするなら、情報の共有は避けられない。そういう新しい世界では、「効率だけで考えたら、創造なんてやってられない」から、一見モノマネをして安直に生きるほうが正しいかのようにも見える。「状況への対応力」で生き抜くのが理にかなっているようにも見える。しかし、無駄なようでも創造性を生もうとする営みを続ける以外、長期的には生き残るすべはない。突き詰めていけば「最後は創造力の勝負になる」のだと、羽生は考えるのである。(46頁)

 知識をシェアして世界を進歩させることで、効率的な改善から、創造的なイノベーションへとパラダイムを変える。羽生善治という人物が行なったことは、GoogleやAppleが行なったことと軌を一にして、同じようなインパクトのものを行なったと言っても過言ではないだろう。では、彼にとって創造性の萌芽とはなんだろうか。特筆すべき点が二つ挙げられる。

 結局、手番を指したら、自分の手は消えてしまうので、そこはもう相手に委ねるしかないところですから。悩んでも、どういう手が返ってきても、それを受け入れるしかないということですよね。そういう曖昧さとか、いい加減さとか、あるいは心配みたいなものを、どういうふうに克服していくか。そういうことに繋がる気がしますね。(252頁)

 第一は、曖昧性あるいは他力という考え方である。すべての問題を因数分解し、独力で合理的に解決することはもはやできない。たしかに、予見性が高く、単純な構造の世界であれば、こうした合理的な手法に基づく問題解決ということもできるだろう。そうした文脈において、合理的な問題抽出および問題解決の有効性を否定するつもりは毛頭ない。しかし、現代における諸問題の複雑性やその問題自体が静的ではなく動的である点に鑑みて、新しいアプローチが求められていることももまた事実であろう。そうした際には、ある部分において他者に委ね、曖昧な現実に対して柔軟に対応するということが、問題への創造的なアプローチになり得るのではないだろうか。

 「超一流」=「才能」×「対象への深い愛情ゆえの没頭」×「際立った個性」(中略) 「知の高速道路」が敷設され、癖のない均質な強さは、昔に比べて身につけやすくなった。しかし、「高速道路を走り切ったあとの大渋滞」を抜けるには、加えてこれらの三要素が不可欠なのだ。特に「際立った個性」の強さが、最後の最後の紙一重の差を作り出す源となるのである。そしてそれは、どんな分野にもあてはまる普遍性を有する。(289~290頁)

 創造性に結びつく第二の点は、「超一流」の条件の一つである「際立った個性」と言えるのではないだろうか。個性であるということはすなわち、成功している他者のアプローチをリバースエンジニアリングを掛ければ創造的になれるわけではないということである。リバースエンジニアリングが有効なのは「高速道路」を走る際のアプローチであって、「高速道路」後の「大渋滞」を抜ける際には決して有効ではない。自分自身の内側にあるキャラクターと統合された個性こそが、プロフェッショナルとして活躍するために求められるのである。

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