2014年1月5日日曜日

【第238回】『宗教とは何か』(T・イーグルトン、大橋洋一+小林久美子訳、青土社、2010年)

 論争は、知的であるかぎりにおいて、すなわち、論理的であり含蓄のあるものであれば、興味深く学びの多いものになる。ドーキンスとイーグルトンによる宗教あるいは無神論に関わる論争は読んでいて心地が良いものであった。

 「無からの」創造とは、もっとも基本的な物質にすら頼ることなく創造できた神がいかに悪魔的に狡猾かの証左ではなく、世界が、世界に先行する過程の不可避の頂点ではなく、いわんや、なんらかの因果関係連鎖の帰結でもないことの証左なのである。宇宙には必然性がないがゆえに、わたしたちは、宇宙をア・プリオリに統括する法則を演繹できず、そのかわりに宇宙のじっさいのはたらきを観察することを余儀なくされる。この観察は科学の務めである。したがって無からの創造の教理とリチャード・ドーキンスの専門職生活とは奇妙なつながりがある。神なくしてドーキンスは職を失うだろう。彼の雇用者の存在を疑問に付すところが、彼特有のおこがましさなのである。(22~23頁)

 最後の一文は、講演時のリップサービスといったやや嫌みな意味合いのものではあるが、科学と神学との関係性とを巧みに抉り出した箇所と言えるだろう。ドーキンスが因果の帰結として絶対的な創造主としての神の存在を批判したのに対して、そうした無からの創造を絶対的な創造として理解することは誤読であると反論する。神を「干渉主義的支配者」(23頁)と捉えるのではなく、人々の自由を保障するという文脈での創造主という位置づけを行っているのである。

 現在までのところ、資本主義はその宗教的・形而上的上部構造を、たとえ将来捨てることを余儀なくされるとしても、いまはまだ捨てていない。とりわけテロリズムの世界にあって、社会的に機能不全をおこした原理主義と宗教的信仰がますます同一化するようになれば、宗教が消えてなくなる可能性は否めないだろう。(65~66頁)

 マルクス主義的な言葉遣いに郷愁をおぼえて大事な点を読み飛ばしてはいけない。ここでは、ドーキンスをはじめとした無神論者が批判する根本である原理主義と呼ばれる現象への批判に共感を示しているのである。しかし、その一方で、宗教的信仰と原理主義とを巧みに分類することで、原理主義批判を認めながら、それを宗教的信仰への批判に結びつけないという論法を用いているのである。

 みずからの敵を精神異常者であると決めつけることの裏面にあるのは、みずからを免罪する姿勢である。わたしたちが信仰を、理性の対極にあるものとしてみているかぎり、こうしたあやまちをおかしつづけるだろう。(140頁)

 原理主義批判への理解を示しながら、自分と異なる主義・信条を持つ存在を否定することへの批判を端的に示している。他者を一方的に決めつけて攻撃することは、自分自身を省みず、自身の罪の意識を滅することになる。どのような立場に立とうとも、著者のこの指摘についてはしっかりと受け止める必要があるだろう。

 原理主義と宗教的信仰との違いを明確にした上で、著者は、宗教的信仰をどのように積極的に位置づけるのだろうか。

 宗教的信仰はそもそも<至高の神>が存在するという命題に賛成するかどうかといった次元の話ではない。この点で、無神論と不可知論の大半がつまずいてしまう。神は実体としてこの世に「存在する」わけではない。すくなくともこの点においては、無神論者と信仰者は意見の一致をみるだろう。さらに多くの場合、信仰は命題的というよりむしろ行為遂行的なものである。(144頁)

 神の実体的な存在を否定する無神論者や不可知論者の意見を大胆にも受け容れている。その上で、神の存在性に信仰の中心を置くのではなく、神を信じて行動するという行為に信仰の中心を置いているのである。では、信仰的な行動とは何を意味するのだろうか。

 知は積極的な関与を通じてすこしずつ蓄積されるもので、積極的関与自体が信仰を内包している。信念が行動を動機づけるのはたしかなのだ。と同時に行動によって自分の信念が定まっていくという側面もある。さらにわたしたちは、知を、もっぱら人間よりも事物を知ることをモデルにしてみてきたので、信仰と知がからまりあう別の側面をも見逃してしまっている。特定の人物を信頼(=信仰)してはじめて、その人物に自分のことをあらいざらいさらけ出すという危険をおかすことができるのであり、結果として、自分自身についての真の知が可能になるのだ。この点で、理解可能性は、信頼性と密接にかかわってくるし、これは道徳的概念でもある。(156頁)

 信仰的な行動の一つとして、積極的に知に関与することを著者は取り上げている。他者への信頼であっても、宗教への信仰であっても、他者や他の存在への信頼性があることによってはじめて私たちは積極的に知を習得することができる。<信>があることで積極的関与に基づく行動ができる、という点は充分に首肯できる。
 
 ハイデガーとウィトゲンシュタインにとっての知とは、この世界にわたしたちを慣習的に縛りつけるもののなかに埋め込まれている諸前提の範囲内で作用するもので、けっして正確に形式化されたり主題化できるものではないのだ。(中略)知ることのノウハウが、知に先行する。わたしたちのあらゆる理論化は、たとえどんなにかけはなれたもののようにみえても、わたしたちの慣習実践的生活様式に基盤を置いている。(167~168頁)

 知る内容をいかに得るかという「知ることのノウハウ」は、自覚的であろうと無自覚であろうと「慣習実践的生活様式」を基にしている。そうであればこそ、人が何を知ることができるかは、生活様式、言い換えれば自身が拠って立つパラダイムに規定されざるを得ない。こうしたパラダイムを構成する主要な一つの要素が信仰であり信頼なのであろう。

 多元的な時代には、確信と寛容は相容れないものと考えられている。だが、ほんとうのところ、確信なるものは、人が寛容にあつかうべきものとされているものの一部にもなっており、そのためいっぽうを排除すれば、もういっぽうも排除することになってしまうのだ。(174頁)

 多様性および多元性が重視される現代社会に対する警鐘であり示唆的なメッセージとなっている。ある特定の信仰への確信は、それ以外の信仰への寛容と両立するし、逆に、確信がなければ寛容性がなくなるとまで著者は述べているのである。卑近な例ではあるが、ある神学の教授の講義を受けたことがあるが、キリスト教への確信的な態度を持ちながら、他宗教への寛容の精神に満ちた言動に驚きをおぼえたものだ。積極的に自己肯定できる人こそが、他者への理解や受容を自然と行えるのであろう。

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