日本文化について、テーマと時代とを縦横無尽に行き来しながら読み解くという、碩学の著者ならではの書籍である。それぞれに読ませる部分が多い章立ての中で、「時」に関する著述に焦点を当てて以下にまとめてみたい。
日本人がもつ時間意識をうまく説明することはなかなか難しいことです。なぜなら日本の時間はヨーロッパともちがい、またインドともちがい、その根底には「ウツロヒ」という観念を置いているからです。 ウツロヒは移行のことです。春夏秋冬の季節の移行であり、光から闇へ、闇から光への移行であり、また一日のウツロヒであって、人生のウツロヒです。(317~318頁)
ヨーロッパでは、時間を一本の矢印のベクトルのようにイメージし、成長に向けた動的なエネルギーのようなものと捉える。一方で、インドにおいては、時間とは静的で外的なものであり、人はその中で淡々と役割を演じるものと捉えられている。それらに対して、日本人にとっての時間とは移行するものである、と著者は述べる。では、ウツロヒもしくは移行とはどのようなことを意味するのであろうか。
「移る」「写る」「映る」が同じ言葉であるということは、何かが移っていくと、そこに心に写されるものがあり、また、その心に写ったものが心の外の何かに映し出されているのだということです。これらがひとつながりに連動する。ここに、本書の主題である花鳥風月の心が、実は連続的に映し写されていくイメージの切れ目のない移行性だったのだということがあかされるのです。 では、このような移行の連動性が、なぜにウツという空虚やからっぽのイメージをあらわす言葉(語根)から派生してきたかということですが、そのことを理解するには、まず「ウツなるもの」というものが、古代中世の日本にとって大きな意味をもっていたことを知る必要があります。(318~319頁)
ここで著者は、ウツロヒとは連続的な移行性と端的に捉えている。移行する主体とは、外的存在であり、私たち自身にある内的存在であり、外と内との関係性でもある、という複数が射程に入っていることに着目するべきであろう。では、ウツロヒの中にある「ウツ」という空なる存在の意味は何か。
ウツという空虚はイメージを生成する原基だということなのです。そして、ここにウツなるものが実は「時間を生む容器」でもあったということが卒然として判明してきます。ウツロヒとは、もともと「ウツなるところ」から生まれてきた「ウツなるもの」が移動していくことだったのです。(320頁)
自明なことであるが、容器の「器」を訓読みすれば「うつわ」となる。連続的に移行するものは空の器であると著者は説明を加えている。こうした器の中に時間が入っているというように捉える思考様式を持つことは、私たちの独特な時間への感覚をもたらすことになる。
私は、どうも日本の時間は「持ち運びできるような感覚」のなかにあったのではないかとおもいます。そして、その持ち運びできるような時間は、時間そのものとして実在していたのではなく、何か別のものの付随性として生々流転をしているように見えるのです。 そのことを暗示するのは日本における「器」の力です。(中略) ホカイというものがあります。 おおむねは「外居」とか「行器」と綴ります。(中略) ホカイは何かを容れるための容器ではなく、何かが入ってくるための容器なのです。何が入ってくるかというと、告げられるべきものや心を向けるべきものが入ってくる。すなわち、何か威力のある情報が入ってくるものなのです。(322~323頁)
普通のお皿や食器とは異なる特別な器の中に入るものは時間である。したがって、「持ち運びできるような感覚」を時間というものに対して見出していると著者はしている。さらに、ホカイの「ホカ」の部分に焦点を当てて、著者は思考を深める。
ホカイやホカヒは、実は「ほかう」(祝う)という行為が容器化したり儀礼化したりしていたのであって、それは、もともとは「ほか」を意識する為の行為を原型としていたのだということに気がつかされるのです。 いったい「ほか」とは何でしょうか。「ほか」とはよそであり、別のところ、ちがう場所ということです。(324~325頁)
祝うという行為は、キリスト教の考え方を援用すれば何かを聖別するということであり、他と自を区別するということである。したがって、器は私たちの外にあるものであるために、器の中にある時間というものも私たちの外にある存在として捉えられることになる。
われわれは、「外部」としかいいようのないどこかに何かのディレクション(方向)を感じています。その「外部」は自分のいる場所以外であり、家の外であり、川のむこうであり、風のやってくる山のかなたであり、鳥が去っていく空のはてです。また、今日の感覚でいえば、その「外部」は宇宙であるかもしれません。いずれにしても、その「外部」はわれわれの知らないところです。 その知らないところが「ほか」というものです。われわれはこの「ほか」をもつことによって、何かホッとする。なぜホッとするかというと、そこはわれわれの日々の責任が届かない非実在の空間であり、別の時間が流れていると想像できるところであるからです。(327頁)
時間とは持ち運びできるものであり、その持ち運びできるものは自分たちが創り出したり、欲しい時に得られるものではないという感覚を持っている。他の存在に時間を委ねるということであろうし、さらにそうした手放す感覚を心地よいと感じる傾向があるとまで著者はしている。
私は、日本の時間の源流が「ほか」に属していたのではないかと見ているのです。「時」は最初から「ここ」のある時点にあったのではないことを知らされるのです。それは「むこう」(ほか)から流れ来たって、また「むこう」(ほか)へ流れ出していく。それはおうおうにして四季のウツロヒと重なっていく。それが日本の時間です。 けれども、何も用意しなければ時間はただ過ぎ去っていくばかり、そこで、その「ここ」と「むこう」(ほか)のあいだに、ウツなるものでできた何かの容器を、時間の獲得のためのインターフェースとして、また情報の獲得のインターフェースとして、さまざまに用意したのです。(329頁)
時間というものをアンコントローラブルなものとして捉える一方で、訪れる「時間」をしっかりと受け止められるようにインターフェイスを用意する。外的な存在への受容とともに、その中でチャンスを受け止めようとするしたたかで柔軟な感性を私たち日本人は歴史的に持ってきたのかもしれない。
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