2015年7月26日日曜日

【第466回】『パラレルキャリアを始めよう!』(石山恒貴、ダイヤモンド社、2015年)

 パラレルキャリアとは、ドラッカーが『明日を支配するもの』で提唱した概念だそうだ。著者は端的に「会社勤めなどの本業をしっかりと持ちながら、本業以外に社会活動を行なう新しい生き方であり、仕組み」(Kindle No. 6)と定義づけている。こうした目新しい概念を把捉するためには、対義語と比較して考えると分かりやすい。著者は、パラレルキャリアの対概念として、シングルキャリアを置いている。その上で「自分が本業と考える組織、あるいは役割に全面的に依存してしまい、その価値観を疑問の余地なく受け入れ、その状態から変化する可能性すら想定していない場合」(Kindle No. 116)と定義する。したがって、自分自身の役割を多様に捉え、それぞれの役割の変容やその統合体としての自身のあり様の多様性を意識的に捉えることが、パラレルキャリアの本質と言えよう。さらには、もはや「本業」という考え方自体が、旧来の外的キャリアを重視するパラダイムに属するものと考えられるのかもしれない。

 こうしたパラレルキャリアが着目されつつある背景には、花田(2013)が指摘するように、ダイナミックプロセス型のキャリア形成の重要性が増してきた環境要因がある。

 変化が激しく、厳しい競争状況にある今の組織の状態では、一般的な報酬満足(外的キャリア)や、自分が意味があると考えている仕事(内的キャリア)や、自分にとって重要と思われる仕事の遂行プロセス(従来型のプロセス論)よりも、成長やキャリアチャンスの拡がりといったダイナミックプロセスが重要となる(『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年)、106~107頁)

 以前の、予定調和性の高い環境においては、長期的なキャリアゴールから逆算的に最適解を導き出すという静的なキャリア観でも対応できたであろう。しかし、グラットン(2012)でも明らかなように、環境変化が激しい状況においては、現時点である職業に求められる要件は数年後には大きく変わっているし、そもそもその職業が存在するかどうかも不確かだ(『ワークシフト』(L・グラットン著、池村千秋訳、プレジデント社、2012年))。したがって、私たち個人にとっては、環境や自分自身の変化を所与に置いた上で、いかに自分自身を変化・変容させるかという動的なキャリア観が大事になってくる。このように考えれば、ある時点において一つの職務や役割を全うするというアプローチから、ある時点において複数の職務や役割を同時並行的に担うというパラレルキャリアへと移行するのは必然であろう。なにも必要に迫られて、プレッシャーを感じながら複数の役割を担う必要はない。むしろ、多様な役割をたのしみ、それぞれの変容をたのしむというマインドセットで臨めば、パラレルキャリアは私たちにとって一つの魅力的な働き方であり、生き方である。

 では、具体的にパラレルキャリアにはどのような効用があるのか。働く個人に関するものと、周囲の他者に与えるものという二つに分けて考えられるだろう。

 パラレルキャリアを志向する個人にとっては、それぞれの「仕事にメリハリをつけようという意識」が高まる(Kindle No. 1712)。日本におけるホワイトカラーの生産性の低さが指摘されることも多い中で、パラレルキャリアによって、業務の効率性や生産性に意識が向けられるということは重要な指摘であろう。さらに、個人の中で何にどれほどの時間的・精神的な資源を費やすかということを考え、また実際に投資した結果から自身の興味・関心に気づくこともできるのではないか。パラレルキャリアにおいては、複数の役割を同時並行で行なうので、極論すれば、ある役割で多少うまくいかなくても問題は少ない。いわば、自身のキャリアをリスクヘッジするメリットがある。このように考えれば、青い鳥症候群のように、自身のキャリアについて過度に思い悩むという不健康な思考様式を抑制できるのではなかろうか。

 次に周囲への影響としては、リーダーシップの発揮の変容が挙げられる。著者は、特定非営利活動法人である「最高の居場所」の事例を取り上げながら、サードプレイスを「連携型リーダーシップと分散型リーダーシップを育むためにうってつけの環境」(Kindle No. 1178)と指摘している部分に着目したい。リーダーシップという概念には、個人がいかに周囲の他者や組織を巻き込んで自身の思い描くビジョンを基点に他者と分有して組織レベルでのビジョンへと変容させて協働していくというイメージが強い。しかし、自身が基点になるということにためらいを感じる人が多いことも実際にはあるだろう。そうした人にとって、最初から複数の人々の間で想いを共有して他者に影響を与える連携型や、各自の強みを持ち寄って目的を成し遂げようとする分散型のリーダーシップは、救いに なる考え方である。パラレルキャリアによって複数の組織でリーダーシップを発揮する際に、連携型や分散型のリーダーシップは、私たちの心理的な障壁を下げることに繋がるのではないだろうか。


2015年7月25日土曜日

【第465回】『山椒大夫』(森鴎外、青空文庫、1915年)

 小説を読もうとすると、自然と、漱石か三島に向かってしまう。あまりに集中するのも良くないとおもいながら、では誰を読むか。それで悩むくらいならと、また結局、彼らの作品に向かってしまうという悪循環が最近は続いていた。何がきっかけであったか記憶があやふやであるが、今回は鴎外を読もうと思ったのである。さすがにはじめて本作を読んだということはないが、これまで強く印象に残ったということはなかった。

 越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が優っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折り折り思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、誰の目にも珍らしく、また気の毒に感ぜられるのである。(Kindle No. 451)

 今回、最初に印象的だったのは、冒頭の書き出しが簡潔にしてきれいである点だ。まず、情景をはっきりと思い浮かべることができる。次に、いま引用箇所を書きながら気づいたこととしては、本作のハイライトである安寿の行動が冒頭で予告されているようにも解釈できる。これは、おそらく著者が仕掛けを施したのではないだろうか、と夢想することが、小説を読み解く醍醐味の一つであろう。

 いつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目があいた。(Kindle No. 585)

 ラストシーンにおける、感動的な描写には、余計な解説は不要であろう。描写のポイントを簡潔に絞り、短い部分に三つのセンテンスを入れ込んでいる点がさすがである。


2015年7月20日月曜日

【第464回】『イスラーム文化 その根柢にあるもの』(井筒俊彦、岩波書店、1991年)

 イスラームについては、学部の基礎的な授業で学んだことがあり、その際には興味深く学んでいたと記憶している。したがって、おさらいのように本書を読めるかと期待していたのだが、思いの外、目新しいことを目にする機会となった。表現を換えれば、それほど学びの多い書籍であったとも言える。それほど、知的好奇心を刺激される一冊であったことは間違いない。

 まずイスラームという宗教の本質を見てみよう。

 聖典『コーラン』が商人言葉、商業専門語の表現に満ちているという事実もこの点できわめて示唆的であります。人間がこの世で行う善なり悪なりの行為を「稼ぎ」と考えることなどその典型的な一例です。(27頁)

 要するに『コーラン』では、宗教も神を相手方とする取引関係、商売なのです。(28頁)

 こうしてイスラームは最初から砂漠的人間、すなわち砂漠の遊牧民の世界観や、存在感覚の所産ではなくて、商売人の宗教ーー商業取引における契約の重要性をはっきり意識して、何よりも相互の信義、誠、絶対にウソをつかない、約束したことは必ずこれを守って履行するということを、何にもまして重んじる商人の道義を反映した宗教だったのであります。(29頁)

 イスラーム=砂漠の遊牧民の宗教というイメージを持つこともあるが、『コーラン』の記述から考察するとそうした捉え方は正しくないと著者は断言する。この部分は、『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中央公論社、1974年)と読み比べると非常に興味深い。良い悪いではなく、イスラーム圏における国民国家で近代化が起こりづらい理由とよく符合していると言えよう。

 こうした宗教上の特徴が、その宗教圏における文化をどのように形成することになったのか。

 『コーラン』は神の言葉だけをそのまま直接に記録した聖典として完全に単層的です。そういう単一構成の書物がさまざまの方向に向って解釈されまして、それがイスラーム文化を生んでいく、そこに大きな特徴があります。(39頁)

 イスラームという宗教では存在に聖なる領域と俗なる領域とを、少なくとも原則としてはまったく区別しない。つまりイスラームでは宗教はいわゆる聖なるもの、存在のある特殊な次元としての神聖な領域だけに関わることではないのでありまして、ふつうの考え方でいきますと、世俗的、俗世間的と考えざるをえないような人間生活の日常茶飯事まで宗教の範囲に入ります。(中略)生活の全部が宗教なのです。(中略)
 この点においてイスラームは、教会を世俗国家からはっきり区分する聖俗二元論的キリスト教と鋭く対立します。「わが王国はこの世のものではない」と言い、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」と言ったイエスの言葉の上に、キリスト教のあの壮麗な中世的教会制度が構築されていくのですが、イスラームはこれとはまったく別の独自の道を行く。(40頁)

 聖と俗とを分けず、あの世とこの世とを分けず、宗教がそのまま生活に繋がるのがイスラームの特徴だ。したがって、聖と俗とを分ける二元論的社会を形成するキリスト教圏とは、発想の出発点が異なる。特定の宗教を持たず、宗教によって生活を律することが稀有な身からすると、聖と俗とが別れたもの、すなわちキリスト教のような存在を「宗教」として捉えがちではないか。自明のことなのではあろうが、「宗教」を十把一絡げのものとして捉えず、それぞれを理解することが、異なる文化を理解することにも繋がるのではないだろうか。

 イスラームという宗教はこれを極端に単純なシェーマに直しますと、『コーラン』ーーあるいは、それを人々に伝達する預言者ーーを中間項として結ばれた神と人間とのタテの関係、垂直的関係ということになります。私がなぜここで垂直的関係ということを強調するかといいますと、後でイスラーム法のお話をするときにヨコの関係ということが大いに問題になるからであります。(60頁)

 宗教と生活とを結びつけるのは、神と人々との契約関係であり、これを垂直的関係として著者は述べる。この契約関係だけでは、神と人間との垂直的関係が複数存在するだけとなるが、そうした人間どうしを結びつけるのがイスラーム法であり、これがヨコの関係を形成していると予告している。

 最初は神と人とのあいだの個人的実存的契約のタテの線だったものが、時とともに、預言者を中心とする人と人との同胞的結びつき、純人間的な契約のヨコの広がりを加えることになる。つまりイスラームが社会性を帯びて、一つの社会的宗教に転生していくのであります。そして事実、メディナに移ってからのムハンマドの周りには、そのようなヨコの契約で固く結ばれた人々の強力な一大集団ができ上るのでありまして、こうして成立した信徒の集団をイスラーム「共同体」、アラビア語の言語でummahと申します。(112頁)

 神と人とのタテの契約関係が、同じ神を持つ人どうしのヨコの関係へと結びつく。こうした同じ契約に基づく結びつきが、イスラームを共同体へと変えたのである。

 イスラームは血縁意識に基く部族的連帯性という社会構成の原理を、完全に廃棄しまして、血縁の絆による連帯性の無効性を堂々と宣言し、その代りに唯一なる神への共通の信仰を、新しい社会構成の原理として打ち出しました。たとい血を分けた兄弟であっても、生みの親ですら、本質的にはなんの意義ももたなくなってしまうような、まったく新しい社会が構想されるのです。(117頁)

 イスラームは無から社会を構成したわけではない。イスラームをもとにヨコの関係性が形成される以前には、同族社会が形成されていたのである。血縁に基づいて形成されていた絆が、イスラームによって宗教を同じくする共同体へと組み替えられた。

 イスラーム共同体=ウンマは、神に選ばれた特殊な共同体ではありますけれども、それ自体が神のミステリウムである、神の秘儀であるというような興奮はそこにありません。この選ばれた集団は、選ばれた集団でありながら、しかも外に向って大きく門を開いている。開放的であって、排他的でない。ユダヤ共同体のように民族的に閉鎖された社会ではありません。誰でもその一員になることが許されるのです。この意味でイスラーム共同体の宗教は、仏教やキリスト教と同じく一つの開かれた、普遍的、人類的宗教であります。(124頁)

 人間として、人間である限り、本性上平等だというのではなくて、共同体的社会の契約構造においては、この契約関係に入った人は誰でも平等だということです。つまり人間の自然的本性のようなものを考えに入れない、特殊な社会契約的平等であります。(125頁)

 ヨコの関係に基づく宗教的共同体であるイスラーム社会においては、そのヨコの関係は徹底的に平等に基づく社会である。さらには、神との契約を結んでいれば共同体に参加することができるため、社会への参画を排他される存在はいない。

 完全に制度化され、ひとつの社会秩序の構造となった時点でのイスラーム共同体の宗教が自己表現した形、それがすなわちイスラーム法、イスラームの法律なのであります。(114頁)

 こうした宗教的共同体を束ねるものとしてのイスラームという宗教が、法律として個別具体的な生活における規範として設けられたのである。

 イスラーム法とは、神の意志に基いて、人間が現世で生きていく上での行動の仕方、人間生活の正しいあり方を残りなく規定する一般的規範の体系でありまして、それに正しく従って生きることがすなわち神の地上経綸に人間が参与することであり、それがまた同時に神に対する人間の信仰の具体的表現ともなるのでありまして、その意味でイスラーム法がすなわち宗教だといわれるのであります。(147頁)

 常識的には、神の啓示が神憑り状態の預言者に次々に下って、それが次第にイスラーム法になったというふうに考えられておりますが、それは正しくありません。イスラーム法を法として形成したものは神の言葉そのものではなくて、それの知性的、合理的解釈だったのであります。(157~158頁)

 『コーラン』という聖典を人間が解釈し、それを法規範として創り上げたものがイスラーム法である。したがって、合理的な規範であるとともに、それはイスラームという宗教が法律化したものであると言える。


2015年7月19日日曜日

【第463回】『グローバル時代の人事コンピテンシー』(D・ウルリッチら、日本経済新聞出版社、2014年)

 著者の書籍をじっくりと読むのは「Human Resource Champions」以来である。同書で提示された四象限のモデルが印象的であるとともに一つの完成形のようにも感じられたため、それ以降の書籍にはなかなか手が伸びなかった。しかし、本書もまた、各国のHRに求められるコンピテンシーを数年に渡って調査したものの結果をもとにして論が進められており、興味深い一冊である。研究者の方々にとっても興味深い知見なのかもしれないが、実務家にとって示唆的な内容が多いと言えよう。

 競争優位の残された未開拓領域は、いまや会社が「知っていること」ではなく、会社が「創り出せるもの」なのである。(中略)テクノロジーの移り変わりが激しくなり、企業文化を持続可能な成功を収めることに特化しなければならない現在、技術からさらに視野を広げて、こう問いかける必要がある。「企業文化の行動計画に携わるもっともすぐれた思想家やクリエイターは、どの部門に配属されているべきなのだろうか?」
 それは人事だ。長年のリサーチが、はっきりとそう示している。テクノロジーの興亡が激しいこの時代、競争優位は人事部門から生まれるのだ。(30~31頁)

 HR担当者にとってマインドセットが変わるような指摘である。HRは、現業部門が変化することをサポートするという役割ではなく、変化を促す考え方や設計思想じたいを自ら創り出し、現業部門とともに実装していく役割を担うのである。

 われわれは、人事部門を企業(ビジネス)の中にあるもうひとつの企業(ビジネス)と見なしている。戦略と目標を持ち、それらを企業文化、人材、リーダーシップに転換することに焦点を絞った企業(ビジネス)だと。そこでは、人事のプロはつねに相容れない要求(パラドックス)を意識していなければならない。(50頁)

 こうした価値を創り出す活動をいかに実践していくか。そのためには、HRは、企業の中においてビジネスを行う主体として捉える必要があり、現業部門との間にパートナーシップを構築することが求められるだろう。これこそが、ビジネスパートナーという存在であるHRとしての真の有り様なのではないか。

 各論においても興味深い部分が散見される。とりわけ取りあげたいものを二点だけ取りあげることとしよう。

 世界のサンプルと比べて、中国の人事のプロたちは学歴水準が低い。参加者の五八パーセントが大学しか卒業しておらず、大学院卒は二八パーセントである。それとは対照的に、世界のサンプルでは大学卒の割合は三八パーセントで、五〇パーセントが大学院卒である。(155頁)

 私自身は日常において学歴というものを意識することは滅多にない。そのようなものは不要とは言わないまでも、人材のバックグラウンドを判断する上での数多の要素の一つにすぎない。しかし、この上述した人事部門における大学院卒の比率のデータには驚かされた。繰り返すが、HRにおいて学歴が高いということ自体に意義があるのではない。世界における約半数のHRが修士以上の学歴であることの持つ意味合いは、HRとしてのキャリアを歩む途中で大学院に通い、修士号を取得したことの結果ではなかろうか。つまり、自分自身で問題意識を持ち、それを育み研究を行うということを、他国のHRのプロフェッショナルは当り前のこととして行っているのではないか。このように考えれば、日本の企業におけるHRのプロフェッショナリティーに危機感を抱く気持ちを持ってしまう。

 一部の会社ではリバース・メンタリングをおこない、仕事と生活のバランスのとり方について若手社員が組織上部の人間にアドバイスしている。(176頁)

 寡聞にもリバース・メンタリングという概念を知らなかったのであるが、面白い取り組みである。仕事や生活におけるダイバーシティを学ぶ上では、上位者が下位者に教育をするという従来の発想では立ち行かない。ヨーロッパ企業を取りあげたリバース・メンタリングという考え方は、その一つのソリューションになるのではないだろうか。


2015年7月18日土曜日

【第462回】『高瀬舟』(森鴎外、青空文庫、1916年)

 庄兵衛と喜助という二人しか登場しない、船の上でのほんのわずかな時間を切り取った物語。限られた時空の中に、余韻としての深みを感じさせる、そんな一冊である。

 さて桁を違えて考えてみれば、 鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。その心持ちはこっちから察してやることができる。しかしいかに桁を違えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。(Kindle No. 110)

 ここで私たちは老子における「足るを知る」をリアリティを以て感得することができる。その様子を、さらに詳述したものが以下の部分である。

 庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。少しでもたくわえがあったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今、目の前で踏みとどまって見せてくれているのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。(Kindle No. 126)

 こうした描写は何とも言えず、美しい感じがする。さらに、喜助からの独白のすべてを聴き終えた庄兵衛が、そのやるせなさを感じさせる最後の文もまた、印象的である。

 次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。(Kindle No. 210)

2015年7月12日日曜日

【第461回】『創造的論文の書き方』(伊丹敬之、有斐閣、2001年)

 修士になりたての頃にはじめて読んだときは、自明のことが淡々と書かれているように感じた。修士論文の執筆が佳境を迎えつつある時に再読した時には、「そういうことだったのか」と一つひとつ納得しながら新鮮に読みすすめた。修士論文を書き終え、それから約六年が経ったタイミングで改めて今回読むと、研究という、苦しくも心地よい作業を思い起こすことができた。

 本書は、研究とたのしみながら格闘するための、最良のテクストの一つと言えるだろう。著者の弟子たちとの対話をもとにしながら論を進める対話編と、対話で出てきたポイントを整理する概論編とから成り立つ。

 理論の勉強をするというのは、結果として、どういうことを学ばなければいけないかというと、理論的言語、理論的概念で記述されているその理論の世界で、概念間の相互関係がどうなっているか、という勉強。つまり理論そのものの内容を理解するという勉強で、これが第一段階。
 第二段階は、そういう理論がどういう現実から抽象化されてきたかという、その抽象化と理論化のステップも勉強する。そこまで勉強しておくと、整理ダンスを作る職人さんの代わりができるようになる。(39頁)

 まず大事なことは、理論を学ぶという行為は、何らかの知識や情報を習得するものでは「ない」ということである。概念と概念の関係性を学ぶことが、ある理論を学ぶという行為であるという指摘に私たちは刮目するべきであろう。その上で、概念と概念とを結びつけた背景や理由にまで意識を傾け、理解を深めることが大事である。そこまでをセットで捉えることによって、私たちは理論を自分の頭の中に収めることができ、必要な時に必要な理論を取り出すことができるようになる。

 論文のテーマ探しはやっかいな仕事である。(中略)
 しかし、そのやっかいなことをやるプロセスが人を育てる。どこから探したらいいかよくわからないというところから始まって、うろうろと悩みながら歩く。その悩みとそのプロセスで蓄積するものが人を育てるからである。何らかの理由ですでにテーマがかなり具体的に決まっている人は、幸運でもあるが、しかし不幸でもある。(116~117頁)

 学術論文を執筆した経験がある方であれば、膝を打ちながら首肯する部分であろう。探しているプロセスの最中においては地獄のような苦しみと徒労感に苛まれるものであるが、そこを経ると頭の中がすっきりとするテーマが見つかる。テーマを見つける作業というものは、物事の中に作品を見出して描き出すような行為なのだろう。それが見つかれば、なぜ以前は見えなかったのかむしろ不思議なくらいであるが、見つかる前は風景に同一化された対象を見出すことは困難である。そうしたものの見方を見つける過程で、その周囲に対する理解や対象自体に対する理解が深まる。プロセスによって鍛えられたものの見方によって、見えないものを見る力が養われるとも言えるのではないだろうか。

 自分の言いたいことが、もっと大きな図柄の中ではどのような位置づけになるのかということをつねに考える感性と、その位置づけを正確に把握しようとする感度が必要である。その位置づけが正確であれば、自分が細かな差を明確に認識できるようになるし、当然、他人にとってわかりやすい表現ができるようになるであろう。(180頁)

 自分自身で見出した理論であっても、それをどのように位置付けるかによってその意義は異なってくる。華美に着飾るように位置付けるのでもなく、引っ込み思案に位置付けるのでもなく、謙虚にかつ深みをもって位置付けるようにすること。そうした姿勢をもって、抑制が利きつつ主張するべきところは主張できるような研究を、私たちは心がけたいものである。


2015年7月11日土曜日

【第460回】『余は如何にして基督信徒となりし乎』(内村鑑三、鈴木俊郎訳、岩波書店、1938年)

 著者がキリスト教を信奉するまでに至る過程が、著者自身の日記をもとに述べられた本作。宗教という存在をどのように受容し、どのように自己同一化していくか、について描かれた興味深い作品である。

 余は『イエスを信ずる者』の契約に署名するよう強制されたことを悲しまなかった。唯一神教は余を新しい人とした。余は豆と卵とを再会した。余は基督教の全体を悟ったと考えた。それほどに一つの神という観念は感激的であった。新しい信仰によって与えられた新しい霊的自由は、余の心と体とに健全な感化を与えた。余の勉学はよりいっそうの集中をもって行われた。(26頁)

 キリスト教に興味を持って接している中で、ある日、著者はキリストとの契約に関して強制的に署名させられたと表現している。しかし、強制的な契約にも関わらず、著者はそれを受容し、肯定的に捉えているところが不思議である。特定の宗教を持たない身としては分からない部分であるが、そうであるからこそ、私にとってこの描写の新鮮さが際立つとも言えるのかもしれない。

 我々は一人の基督信徒によって踏査され、一人の基督信徒によって測量され、一人の基督信徒によって建設された道路を踏んだ最初の人であった。一片の材木もこの道路の上を運ばれない前に、平和の善き音ずれを運ぶ者の足がその上にあった。それは本質的に基督教的道路であった、そして我々はそれを「道」とよんだ。(87頁)

 著者が仲間とともに自分たちの教会を建設した直後の感情である。無の状態から有を創り出す達成感と心地よさには共感できるものがある。もっとも、私の感じるそれと宗教者の感じるそれとでは、異なるものなのかもしれないが。

 我々の教会独立が我々がかつて属していた教派に対する公然の反逆として意図されたと考える人があれば間違いである。それは我々が目指した一つの大目的に達しようとする、すなわち我々自身の能力と資質(神の与えたまいし)の完全な意識に達しようとする、そして己が霊魂の救いのために神の心理を求める他の人々に妨げとなる邪魔物を取り除こうとする、一つの謙遜なこころみであったのである。自分自身に頼ることを知っている者のみが自分が実際にどれだけのことをすることができるかを知っている。(中略)独立は自分自身の能力の意識的自覚である、そしてこれは人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒であると余は信ずる。(89~90頁)

 それまで所属していた教会からの独立を決断し、自分たちの教会を創った著者たち。その想いが吐露されている箇所である。独立について「自分自身の能力の意識的自覚」と端的に記し、それが「人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒」という部分が特に味わい深い。

 他のいかなる境遇にあっても異境で生活する時ほど我々が自分自身の中に逐いやられることはない。逆説的のように見えるけれども、我々は自分自身についてより多くを学ばんがために世界に入って行くのである。自己はいかなる場合にでも他の国民と他の国とに接触する場合ほど明かに我々に示されることはない。内省はもう一つの世界が我々の目に示される時に始まるのである。(126頁)

 アメリカへ居を移した後の著者の感慨が記されている。キリスト教への信奉から渡米を果たしても、日本における自分を相対的に見出している。異なる社会に身を置くということは、異なる世界観や視座を持つことになる。これこそが、自分自身と対峙する内省のはじまりであるという指摘を噛み締める必要があるだろう。


2015年7月5日日曜日

【第459回】『労働法入門』(水町勇一郎、岩波書店、2011年)

 労働法の碩学の一人である著者による本書は、さながら労働法の入門書と言えるような、簡潔にして明瞭な書籍である。以下の部分には、日本における労働法の位置づけや、その特徴が端的に記されている。

 日本の労働法は、他の先進諸国の労働法に比べて、当事者間の長期的な信頼関係を重視するという特徴をもっている。これは、一方では、人間関係を大切にし、日本企業の国際的競争力を支える源泉となってきたという点で、日本の労働法の長所ともいえる点である。しかし他方で、そこには、メンバーシップをもたない者を差別したり、組織の論理を重視するあまり個人が組織のなかに埋没してしまうという危険が潜んでいる。(48頁)

 長期的な雇用に基づくメンバーシップを源泉とした日本企業の強みはまた、人材の流動性を妨げるという副作用をも生み出してきた。ビジネスにおいて柔軟な経営が求められる時代においては、人材の流動性もまた求められる。日本における労働法と、それを構成する判例法理では、整理解雇法理が硬直的であるとされてきた。しかし、著者は以下のように述べて、そうした見方が必ずしも正しいものではないと指摘する。

 事業場や職務の限定付きで雇用されていた労働者に対して、その事業場や職務が廃止されることに伴ってなされた解雇の有効性が争われたこれまでの裁判例をみてみると、整理解雇の四要件(または四要素)をそのままあてはめて判断したものはむしろ少数で、①人員削減の必要性(廃止決定の合理性)のみを考慮するものや、それに加えて、②配転の可能性や④手続きの妥当性を考慮に入れて判断するものが多い。そして、このような事案では、結論として解雇を有効とした裁判例が多いことがわかる。逆に解雇が無効とされたのは、人員削減の必要性自体に疑問がある、同じ職務に就いていたのに解雇されなかった者がおりその経緯も明らかでない、有期契約の期間途中での解雇であり期間満了を待たずに解雇する必要性が認められない(労働契約法一七条一項参照)など、解雇という選択そのものの合理性が疑われるケースであった(中略)。
 このように、整理解雇法理は、世間で思われているほど硬直的な厳格なものではない。実際に裁判例では、個別の事案の状況に応じて、解雇の合理性・相当性が比較的柔軟に判断されているといえる。社会的な事象を決して色眼鏡でみることなく、現実に起きていることをつぶさに観察する眼を養うことも、法学の門をくぐる際の重要な心構えである。(57~58頁)

 次に、社員の安全や健康といった、古くて新しいテーマに関する法理について見てみたい。

 労働者が会社に対し損害賠償の支払を求める法的根拠としては、まず、不法行為(民法七〇九条など)が考えられる。しかし、不法行為による損害賠償請求権の消滅時効は三年であり(同法七二四条)、また、労働者側が使用者の過失の存在を立証する責任を負うといった難点がある。そこで、最高裁判所は、不法行為以外の法的根拠を示した。使用者は労働契約上の信義則に基づき労働者の生命や健康を危険から保護するよう配慮すべき安全配慮義務を負うとし、その義務をきちんと果たしていなかった使用者に、債務不履行(同法四一五条)の形で損害を賠償させることを認めたのである(その消滅時効は一〇年となる〔同法一六七条〕)。労働契約法は、これを、「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。」という形で、法律上明文化している(五条)。
 この安全配慮義務は、単に労働契約を締結している労働者と使用者との間だけでなく、事実上指揮監督をして働かせているといった「特別の社会的接触関係」にある当事者間であれば、広くそこに発生する義務であるとされている。(142~143頁)

 最後に、労働者という考え方について、労働基準法と労働組合法のそれぞれの持つ意味合いの違いについて取りあげる。

 労働基準法は、人的な従属関係(「使用」性)のもとに置かれる労働者を対象に、使用者に賃金の通貨・直接・全額・一定期日払いなどの具体的な作為や、法定基準を超える労働をさせないといった不作為を命じている。それとは異なり、労働組合法は、経済的に弱い地位にある労働者に団結活動や団体交渉を行うことを認めて、対等な立場での労働条件の決定を促そうとするものである。この法の主旨(一条一項参照)から、法が適用される労働者かどうかを判断する際には、主として、使用者より経済的に弱い地位にあるという経済的従属性が求められ、労働基準法のように厳格な意味での人的従属性(「使用」性)は要求されていないのである。(188~189頁)

2015年7月4日土曜日

【第458回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

 本書を初めて読んだのは、新婚旅行でモルディブへ向かう機中であった。タイトルや主題と矛盾するように、他にも読みたい書籍があって早く読もうとして読んだように記憶している。その結果、あまり心に響くことが多くなかった。しかし、今回、何となく疲れた状態で、時間を気にせずに、じっくりと読み直したいと思った。二十代の後半から三十代の半ばへと時が移ったからか、じわりとこころに入ってくる言葉が多かった。今回は、私のコメントは除いて、印象に残った箇所を以下に抜き書きしていくこととしたい。

 求めないーー
 すると
 それでも案外
 生きてゆけると知る(14頁)

 求めないーー
 すると
 楽な呼吸になるよ(19頁)

 求めないーー
 すると
 君に求めているひとは去ってゆく(56頁)

 求めないーー
 すると
 君に求めないひとは
 君とともにいる(57頁)

 求めないーー
 すると
 ひとの心が分かりはじめる
 だって、利害損得でない目で見るからだ(60頁)

 求めないーー
 すると
 前よりもひとや自然が美しく見えはじめる

 ほんとうだよ、試してごらん
 求めないものの美しさが見えてくるんだ!(96頁)

 求めないーー
 すると「自然」になる(114頁)

 だって自然はひとに
 求めないからだ!(115頁)

 求めないーー
 すると自分が
 自分の主人になる

 だって求めるかぎり
 君は、求めるものの
 従者だもの(125頁)

 求めないーー
 ということは
 なにもしないことではないよ。
 求めないことで
 かえって自分の
 内なる力を汲みだすんだ。
 自分のなかの
 眠っていた力を呼びさますんだ。

 すると
 もっと自然な生き方になる。(153頁)