庄兵衛と喜助という二人しか登場しない、船の上でのほんのわずかな時間を切り取った物語。限られた時空の中に、余韻としての深みを感じさせる、そんな一冊である。
さて桁を違えて考えてみれば、 鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。その心持ちはこっちから察してやることができる。しかしいかに桁を違えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。(Kindle No. 110)
ここで私たちは老子における「足るを知る」をリアリティを以て感得することができる。その様子を、さらに詳述したものが以下の部分である。
庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。少しでもたくわえがあったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今、目の前で踏みとどまって見せてくれているのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。(Kindle No. 126)
こうした描写は何とも言えず、美しい感じがする。さらに、喜助からの独白のすべてを聴き終えた庄兵衛が、そのやるせなさを感じさせる最後の文もまた、印象的である。
次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。(Kindle No. 210)
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