修士になりたての頃にはじめて読んだときは、自明のことが淡々と書かれているように感じた。修士論文の執筆が佳境を迎えつつある時に再読した時には、「そういうことだったのか」と一つひとつ納得しながら新鮮に読みすすめた。修士論文を書き終え、それから約六年が経ったタイミングで改めて今回読むと、研究という、苦しくも心地よい作業を思い起こすことができた。
本書は、研究とたのしみながら格闘するための、最良のテクストの一つと言えるだろう。著者の弟子たちとの対話をもとにしながら論を進める対話編と、対話で出てきたポイントを整理する概論編とから成り立つ。
理論の勉強をするというのは、結果として、どういうことを学ばなければいけないかというと、理論的言語、理論的概念で記述されているその理論の世界で、概念間の相互関係がどうなっているか、という勉強。つまり理論そのものの内容を理解するという勉強で、これが第一段階。
第二段階は、そういう理論がどういう現実から抽象化されてきたかという、その抽象化と理論化のステップも勉強する。そこまで勉強しておくと、整理ダンスを作る職人さんの代わりができるようになる。(39頁)
まず大事なことは、理論を学ぶという行為は、何らかの知識や情報を習得するものでは「ない」ということである。概念と概念の関係性を学ぶことが、ある理論を学ぶという行為であるという指摘に私たちは刮目するべきであろう。その上で、概念と概念とを結びつけた背景や理由にまで意識を傾け、理解を深めることが大事である。そこまでをセットで捉えることによって、私たちは理論を自分の頭の中に収めることができ、必要な時に必要な理論を取り出すことができるようになる。
論文のテーマ探しはやっかいな仕事である。(中略)
しかし、そのやっかいなことをやるプロセスが人を育てる。どこから探したらいいかよくわからないというところから始まって、うろうろと悩みながら歩く。その悩みとそのプロセスで蓄積するものが人を育てるからである。何らかの理由ですでにテーマがかなり具体的に決まっている人は、幸運でもあるが、しかし不幸でもある。(116~117頁)
学術論文を執筆した経験がある方であれば、膝を打ちながら首肯する部分であろう。探しているプロセスの最中においては地獄のような苦しみと徒労感に苛まれるものであるが、そこを経ると頭の中がすっきりとするテーマが見つかる。テーマを見つける作業というものは、物事の中に作品を見出して描き出すような行為なのだろう。それが見つかれば、なぜ以前は見えなかったのかむしろ不思議なくらいであるが、見つかる前は風景に同一化された対象を見出すことは困難である。そうしたものの見方を見つける過程で、その周囲に対する理解や対象自体に対する理解が深まる。プロセスによって鍛えられたものの見方によって、見えないものを見る力が養われるとも言えるのではないだろうか。
自分の言いたいことが、もっと大きな図柄の中ではどのような位置づけになるのかということをつねに考える感性と、その位置づけを正確に把握しようとする感度が必要である。その位置づけが正確であれば、自分が細かな差を明確に認識できるようになるし、当然、他人にとってわかりやすい表現ができるようになるであろう。(180頁)
自分自身で見出した理論であっても、それをどのように位置付けるかによってその意義は異なってくる。華美に着飾るように位置付けるのでもなく、引っ込み思案に位置付けるのでもなく、謙虚にかつ深みをもって位置付けるようにすること。そうした姿勢をもって、抑制が利きつつ主張するべきところは主張できるような研究を、私たちは心がけたいものである。
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