イスラームについては、学部の基礎的な授業で学んだことがあり、その際には興味深く学んでいたと記憶している。したがって、おさらいのように本書を読めるかと期待していたのだが、思いの外、目新しいことを目にする機会となった。表現を換えれば、それほど学びの多い書籍であったとも言える。それほど、知的好奇心を刺激される一冊であったことは間違いない。
まずイスラームという宗教の本質を見てみよう。
聖典『コーラン』が商人言葉、商業専門語の表現に満ちているという事実もこの点できわめて示唆的であります。人間がこの世で行う善なり悪なりの行為を「稼ぎ」と考えることなどその典型的な一例です。(27頁)
要するに『コーラン』では、宗教も神を相手方とする取引関係、商売なのです。(28頁)
こうしてイスラームは最初から砂漠的人間、すなわち砂漠の遊牧民の世界観や、存在感覚の所産ではなくて、商売人の宗教ーー商業取引における契約の重要性をはっきり意識して、何よりも相互の信義、誠、絶対にウソをつかない、約束したことは必ずこれを守って履行するということを、何にもまして重んじる商人の道義を反映した宗教だったのであります。(29頁)
イスラーム=砂漠の遊牧民の宗教というイメージを持つこともあるが、『コーラン』の記述から考察するとそうした捉え方は正しくないと著者は断言する。この部分は、『文明の生態史観』(梅棹忠夫、中央公論社、1974年)と読み比べると非常に興味深い。良い悪いではなく、イスラーム圏における国民国家で近代化が起こりづらい理由とよく符合していると言えよう。
こうした宗教上の特徴が、その宗教圏における文化をどのように形成することになったのか。
『コーラン』は神の言葉だけをそのまま直接に記録した聖典として完全に単層的です。そういう単一構成の書物がさまざまの方向に向って解釈されまして、それがイスラーム文化を生んでいく、そこに大きな特徴があります。(39頁)
イスラームという宗教では存在に聖なる領域と俗なる領域とを、少なくとも原則としてはまったく区別しない。つまりイスラームでは宗教はいわゆる聖なるもの、存在のある特殊な次元としての神聖な領域だけに関わることではないのでありまして、ふつうの考え方でいきますと、世俗的、俗世間的と考えざるをえないような人間生活の日常茶飯事まで宗教の範囲に入ります。(中略)生活の全部が宗教なのです。(中略)
この点においてイスラームは、教会を世俗国家からはっきり区分する聖俗二元論的キリスト教と鋭く対立します。「わが王国はこの世のものではない」と言い、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」と言ったイエスの言葉の上に、キリスト教のあの壮麗な中世的教会制度が構築されていくのですが、イスラームはこれとはまったく別の独自の道を行く。(40頁)
聖と俗とを分けず、あの世とこの世とを分けず、宗教がそのまま生活に繋がるのがイスラームの特徴だ。したがって、聖と俗とを分ける二元論的社会を形成するキリスト教圏とは、発想の出発点が異なる。特定の宗教を持たず、宗教によって生活を律することが稀有な身からすると、聖と俗とが別れたもの、すなわちキリスト教のような存在を「宗教」として捉えがちではないか。自明のことなのではあろうが、「宗教」を十把一絡げのものとして捉えず、それぞれを理解することが、異なる文化を理解することにも繋がるのではないだろうか。
イスラームという宗教はこれを極端に単純なシェーマに直しますと、『コーラン』ーーあるいは、それを人々に伝達する預言者ーーを中間項として結ばれた神と人間とのタテの関係、垂直的関係ということになります。私がなぜここで垂直的関係ということを強調するかといいますと、後でイスラーム法のお話をするときにヨコの関係ということが大いに問題になるからであります。(60頁)
宗教と生活とを結びつけるのは、神と人々との契約関係であり、これを垂直的関係として著者は述べる。この契約関係だけでは、神と人間との垂直的関係が複数存在するだけとなるが、そうした人間どうしを結びつけるのがイスラーム法であり、これがヨコの関係を形成していると予告している。
最初は神と人とのあいだの個人的実存的契約のタテの線だったものが、時とともに、預言者を中心とする人と人との同胞的結びつき、純人間的な契約のヨコの広がりを加えることになる。つまりイスラームが社会性を帯びて、一つの社会的宗教に転生していくのであります。そして事実、メディナに移ってからのムハンマドの周りには、そのようなヨコの契約で固く結ばれた人々の強力な一大集団ができ上るのでありまして、こうして成立した信徒の集団をイスラーム「共同体」、アラビア語の言語でummahと申します。(112頁)
神と人とのタテの契約関係が、同じ神を持つ人どうしのヨコの関係へと結びつく。こうした同じ契約に基づく結びつきが、イスラームを共同体へと変えたのである。
イスラームは血縁意識に基く部族的連帯性という社会構成の原理を、完全に廃棄しまして、血縁の絆による連帯性の無効性を堂々と宣言し、その代りに唯一なる神への共通の信仰を、新しい社会構成の原理として打ち出しました。たとい血を分けた兄弟であっても、生みの親ですら、本質的にはなんの意義ももたなくなってしまうような、まったく新しい社会が構想されるのです。(117頁)
イスラームは無から社会を構成したわけではない。イスラームをもとにヨコの関係性が形成される以前には、同族社会が形成されていたのである。血縁に基づいて形成されていた絆が、イスラームによって宗教を同じくする共同体へと組み替えられた。
イスラーム共同体=ウンマは、神に選ばれた特殊な共同体ではありますけれども、それ自体が神のミステリウムである、神の秘儀であるというような興奮はそこにありません。この選ばれた集団は、選ばれた集団でありながら、しかも外に向って大きく門を開いている。開放的であって、排他的でない。ユダヤ共同体のように民族的に閉鎖された社会ではありません。誰でもその一員になることが許されるのです。この意味でイスラーム共同体の宗教は、仏教やキリスト教と同じく一つの開かれた、普遍的、人類的宗教であります。(124頁)
人間として、人間である限り、本性上平等だというのではなくて、共同体的社会の契約構造においては、この契約関係に入った人は誰でも平等だということです。つまり人間の自然的本性のようなものを考えに入れない、特殊な社会契約的平等であります。(125頁)
ヨコの関係に基づく宗教的共同体であるイスラーム社会においては、そのヨコの関係は徹底的に平等に基づく社会である。さらには、神との契約を結んでいれば共同体に参加することができるため、社会への参画を排他される存在はいない。
完全に制度化され、ひとつの社会秩序の構造となった時点でのイスラーム共同体の宗教が自己表現した形、それがすなわちイスラーム法、イスラームの法律なのであります。(114頁)
こうした宗教的共同体を束ねるものとしてのイスラームという宗教が、法律として個別具体的な生活における規範として設けられたのである。
イスラーム法とは、神の意志に基いて、人間が現世で生きていく上での行動の仕方、人間生活の正しいあり方を残りなく規定する一般的規範の体系でありまして、それに正しく従って生きることがすなわち神の地上経綸に人間が参与することであり、それがまた同時に神に対する人間の信仰の具体的表現ともなるのでありまして、その意味でイスラーム法がすなわち宗教だといわれるのであります。(147頁)
常識的には、神の啓示が神憑り状態の預言者に次々に下って、それが次第にイスラーム法になったというふうに考えられておりますが、それは正しくありません。イスラーム法を法として形成したものは神の言葉そのものではなくて、それの知性的、合理的解釈だったのであります。(157~158頁)
『コーラン』という聖典を人間が解釈し、それを法規範として創り上げたものがイスラーム法である。したがって、合理的な規範であるとともに、それはイスラームという宗教が法律化したものであると言える。
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