2015年7月11日土曜日

【第460回】『余は如何にして基督信徒となりし乎』(内村鑑三、鈴木俊郎訳、岩波書店、1938年)

 著者がキリスト教を信奉するまでに至る過程が、著者自身の日記をもとに述べられた本作。宗教という存在をどのように受容し、どのように自己同一化していくか、について描かれた興味深い作品である。

 余は『イエスを信ずる者』の契約に署名するよう強制されたことを悲しまなかった。唯一神教は余を新しい人とした。余は豆と卵とを再会した。余は基督教の全体を悟ったと考えた。それほどに一つの神という観念は感激的であった。新しい信仰によって与えられた新しい霊的自由は、余の心と体とに健全な感化を与えた。余の勉学はよりいっそうの集中をもって行われた。(26頁)

 キリスト教に興味を持って接している中で、ある日、著者はキリストとの契約に関して強制的に署名させられたと表現している。しかし、強制的な契約にも関わらず、著者はそれを受容し、肯定的に捉えているところが不思議である。特定の宗教を持たない身としては分からない部分であるが、そうであるからこそ、私にとってこの描写の新鮮さが際立つとも言えるのかもしれない。

 我々は一人の基督信徒によって踏査され、一人の基督信徒によって測量され、一人の基督信徒によって建設された道路を踏んだ最初の人であった。一片の材木もこの道路の上を運ばれない前に、平和の善き音ずれを運ぶ者の足がその上にあった。それは本質的に基督教的道路であった、そして我々はそれを「道」とよんだ。(87頁)

 著者が仲間とともに自分たちの教会を建設した直後の感情である。無の状態から有を創り出す達成感と心地よさには共感できるものがある。もっとも、私の感じるそれと宗教者の感じるそれとでは、異なるものなのかもしれないが。

 我々の教会独立が我々がかつて属していた教派に対する公然の反逆として意図されたと考える人があれば間違いである。それは我々が目指した一つの大目的に達しようとする、すなわち我々自身の能力と資質(神の与えたまいし)の完全な意識に達しようとする、そして己が霊魂の救いのために神の心理を求める他の人々に妨げとなる邪魔物を取り除こうとする、一つの謙遜なこころみであったのである。自分自身に頼ることを知っている者のみが自分が実際にどれだけのことをすることができるかを知っている。(中略)独立は自分自身の能力の意識的自覚である、そしてこれは人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒であると余は信ずる。(89~90頁)

 それまで所属していた教会からの独立を決断し、自分たちの教会を創った著者たち。その想いが吐露されている箇所である。独立について「自分自身の能力の意識的自覚」と端的に記し、それが「人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒」という部分が特に味わい深い。

 他のいかなる境遇にあっても異境で生活する時ほど我々が自分自身の中に逐いやられることはない。逆説的のように見えるけれども、我々は自分自身についてより多くを学ばんがために世界に入って行くのである。自己はいかなる場合にでも他の国民と他の国とに接触する場合ほど明かに我々に示されることはない。内省はもう一つの世界が我々の目に示される時に始まるのである。(126頁)

 アメリカへ居を移した後の著者の感慨が記されている。キリスト教への信奉から渡米を果たしても、日本における自分を相対的に見出している。異なる社会に身を置くということは、異なる世界観や視座を持つことになる。これこそが、自分自身と対峙する内省のはじまりであるという指摘を噛み締める必要があるだろう。


0 件のコメント:

コメントを投稿