心地よい日本語とは何か。私は文学者でもなければ文藝評論を行なう者でもないが、読んでいて心地よい日本語の文章というものはたしかにある。むろん、そうしたものは普遍的なものというよりも個人が主観で感じ取るものであろう。太宰の文章には、そうした心地よさを感じる。
この西山さんのお嫁さんは、下の農家の中井さんなどは村長さんや二宮巡査の前に飛んで出て、ボヤとまでも行きません、と言ってかばって下さったのに、垣根の外で、風呂場が丸焼けだと、かまどの火の不始末だよ、と大きい声で言っていらしたひとである。けれども、私は西山さんのお嫁さんのおこごとにも、真実を感じた。本当にそのとおりだと思った。少しも、西山さんのお嫁さんを恨む事は無い。(Kindle No. 440)
自宅でボヤをおかしてしまい自責の念に駆られる中、追い打ちをかけるような他者の言動に対する主人公の思い。それに対して、不快感ではなく、真実の一面を指摘していると冷静に捉えるという視野の広さは、女性ならではの美質のようであり、そうした感性を男性である著者が文章に紡ぎ上げている点に凄みを感じる。
どうしても、もう、とても、生きておられないような心細さ。これが、あの、不安、とかいう感情なのであろうか、胸に苦しい浪が打ち寄せ、それはちょうど、夕立がすんだのちの空を、あわただしく白雲がつぎつぎと走って走り過ぎて行くように、私の心臓をしめつけたり、ゆるめたり、私の脈は結滞して、呼吸が稀薄になり、眼のさきがもやもやと暗くなって、全身の力が、手の指の先からふっと抜けてしまう心地がして、編物をつづけてゆく事が出来なくなった。(Kindle No. 673)
小論文という科目を予備校で取っていた時に、一つのセンテンスを短くすることを指導され、具体的には80字以内に収めるように言われていた。その後、作文に関する書籍を読んでも、基本的には文章を短くすることは望ましいものであるとされていたように記憶しているし、私自身もそう思っている。翻って、上記引用箇所の句点までの長いことに驚く。なにに驚くかと言えば、長すぎる文章は、理解が難しく、冗長に感じるものであるはずなのに、美しく、読みやすい点に対してである。私のような素人が真似できるものではないが、ただただ驚くばかりである。
夏の月光が洪水のように蚊帳の中に満ちあふれた。(Kindle No. 761)
母子三人で久しぶりに寝む静謐な空間が目に浮かぶようである。比喩とは、安易に用いると表層的で技巧的な物言いになってしまうが、こうした表現を用いると情景に音と色とが彩られるようだ。
私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽かに光っている砂金のようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、幸福なのである。静かな、秋の午前。日ざしの柔らかな、秋の庭。(Kindle No. 1582)
幸福という感情は、ポジティヴなものが極限までいった時に感じられるものではないものなのかもしれない。悲しみに打ちひしがれ、自分自身に絶望した時に、ふっと見えるちょっとしたものに感じられる救いのような感覚なのであろうか。このように考えれば、日常的に幸福を感じられないとしても、それを否定する必要はないだろう。幸福感があまりないということは、それだけ満ち足りた生活を送っていることになるのかもしれないのだから。
ああ、何かこの人たちは、間違っている。しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。(Kindle No. 1851)
深刻な想いに至るまで思い詰めたことがない身としては、それを幸福なことと捉えるべきか、真剣に生を考えて精一杯生きていないことの裏返しと考えるべきか、悩ましい。生きることと苦しむことという、一見するとアンビバレントな表現の中に、私たちの人生を考える本質的な何かが表れている、とまで表現すると言い過ぎであろうか。
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