2015年12月12日土曜日

【第525回】『嘔吐』(J・P・サルトル、鈴木道彦訳、人文書院、2010年)

 「100分de名著」で興味を持って読もうと思った本書。内容を全て理解したとは思えないが、考えさせられる箇所がいくつか見られ、また読み返したいと思える良書である。

 ごく平凡な出来事が冒険になるためには、それを物語り始めることが必要であり、またそれだけで充分である。人びとはこのことに騙されている。というのも、ひとりの人間は常に話を語る人で、自分の話や他人の話に取りまかれて生きており、自分に起こるすべてのことをそうした話を通して見ているからだ。そのために彼は自分の生を、まるで物語るように生きようとするのである。
 しかし選ばなければならない。生きるか、物語るかだ。(68頁)

 語ることによって、私たちは自分の人生を生きることができると主人公は述べる。では、どのような時に、私たちは語るのか。

 人が生きているときには、何も起こらない。舞台装置が変わり、人びとが出たり入ったりする。それだけだ。絶対に発端のあった試しはない。日々は何の理由もなく日々につけ加えられる。これは終わることのない単調な足し算だ。ときどき、部分的な合計をして、こうつぶやく、旅を始めてから三年になる、ブーヴィルに来て三年だ、と。結末というものもない。(中略)
 これが生きるということだ。けれども生を物語るとなると、いっさいが変わる。ただし、それは誰も気づかない変化だ。その証拠に、人びとは真実の話を語っているからだ。あたかも真実の話というものがあり得るかのように。出来事はある方向を向いて起こり、われわれは逆の方向に向かって物語る。たしかに、発端から始めているようには見える。(中略)しかし実は結末から始めているのだ。結末はそこにあり、目には見えないが現にその場に存在している。このいくつかの言葉に発端の持つ厳めしさと価値とを与えるのは、結末である。(69頁)

 私たちは語る時に、通常は時系列に沿って語っていると感じるだろう。しかし、著者は主人公にそうではないと語らせる。つまり、語る時点から遡ることによって、私たちは結末から逆算して語るのである。当り前と言えば当り前であるが、キャリア理論における回顧の重要性を示唆されているように思え、興味深い。


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