2015年12月26日土曜日

【第530回】『白楽天 ー官と隠のはざまで』(川合康三、岩波書店、2010年)

 詩人という職種には、身体面にしろ、精神面にしろ、何らかの欠落を動機として芸術作品を創り上げるような、どこか不幸なイメージを内包する。しかし、白居易はそうではなかった。彼はどのようにして幸福をもとにして詩作を行なったのか。

 一つは与えられた条件に満足するという彼の態度による。「自足する」、「足るを知る」、こうした言葉は白楽天の詩文のなかにたびたび見える。彼が今置かれている条件に自足する端的な例は、年齢に関する言述にみえる。三十七歳の時、「年を取っているともいえず若いともいえない今がちょうどよい」とうたう(「松斎に自ら題す」詩)。四十七歳の時には「三十代は血気盛んで迷いも多い、六十代になれば体も言うことをきかなくなる。今が一番だ」(「白雲に期す」詩)と言う。六十歳になったらなったで「三十、四十は欲望に縛られる。七十、八十は病気がまといつく。五十、六十の今こそ心身ともに安らかでいられる」(耳順の吟 敦詩・夢得に寄す」詩)と自足する。いずれの時点においても人生のなかで今ほどよい時期はないと満足の思いをうたうのである。(7頁)

 老子を彷彿とさせられると共にほっとさせられる考え方である。もう一つは孔子の中庸を想起させる以下の部分に端的に示されている。

 中間の状態をよしとする態度も白楽天の文学に顕著に見られる。自分の今の年齢に満足するのも、それぞれの年齢を若すぎもせず年を取りすぎてもいない中間状態とみなし肯定していたのだった。年齢に限らず様々な事象について、両極の中間こそ望ましいというのだが、なかでも彼の文学や人生に深く関わるのは、官と隠の中間の状態である。(8頁)

 中国の伝統のたくましさと豊かさを感じさせる。一つひとつの古典が以前のものを踏まえており、時に対立構造を構成しながらもお互いがお互いを補い合っているとも解釈できる。私たちが学べる部分は依然として多いようだ。


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