読む本を選ぶという行為は、点と点を線で結ぶようにして行なわれるものなのかもしれない。最近『史記』の解説本を読んだことで劉邦に関心を持ち、彼について扱っている本書を十数年ぶりに読み返したいと思った。当時、歴史小説に食傷気味であったのに強い印象を抱いた本作を、読み返すことでどのような気づきを得られるか、自身に興味があったのである。
果して、劉邦という、ヒロイックではない存在のリーダーシップに対して強く関心を抱いた。上巻を読んだ段階では、そのリーダーシップの源泉がにわかには分からない。しかし、なにか得も言われぬ魅力がある人物である、ということは伝わってくる。
信陵君の徳のきわだった特徴は謙虚であることだった。いかなる身分の者でも賢才と見れば師表と仰いでへりくだったが、劉邦はそうはせず、蕭何をばかにし、ときにひどく乱暴で無作法であった。もっとも信陵君は貴族だったからへりくだりも徳でありうるが、劉邦のような素寒貧の無頼漢は、うかつに蕭何などにへりくだれば哀れみを乞うているようで、謙虚とは人は見てくれない。(103頁)
謙虚とは、人間の持つ美質の一つであることに疑いはない。しかし、ここでの記述が興味深いのは、そうした美質が良く作用しない可能性があるという社会における本質が指摘されている点であろう。そして、それを漢という大帝国を後に起す劉邦が、自ずと体現していることが面白い。
劉邦という男は、こういう場合、自分の判断を口走らずにひたすらに子供のような表情でふしぎがるところがあった。そういう劉邦のいわば平凡すぎるところが、かえってかれのまわりに、項羽の陣営にはない一種はずみのある雰囲気をつくりだしていたといえる。幕僚や武将たちは、劉邦の無邪気すぎるほどの平凡さを見て、自分たちが労を吝むことなく、かつは智恵をふりしぼってでもこの頭目を補助しなければどうにもならないと思うようになっていたし、事実、劉邦陣営はそういう気勢いこみ充満していた。(291頁)
予想外の友軍の敗報を受けても、まったく動こうとしない。それは凡庸であるとも言えるし、一見すると頼りないことにも捉えられかねない。しかし、それと同時に、以下の記述が付け足されているところが、リーダーとしての比類ない劉邦の有り様であるようだ。
といって、劉邦という男は、いわゆるあほうというにあたらない。どういう頭の仕組みになっているのか、つねに本質的なことが理解できた。
むしろ本質的なこと以外はわからないとさえいえた。(291頁)
本質が分かっていれば、それ以外のものについては、泰然自若であることができる。ことあるごとに読み返して反芻したい箇所である。
『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(二)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(三)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
『世に棲む日日(四)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)
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