2015年12月19日土曜日

【第527回】『項羽と劉邦(中)』(司馬遼太郎、新潮社、1984年)

 勝利と敗北を繰り返す劉邦。時に大敗を喫しても、常に重要な人材を惹き付ける不思議なリーダーシップの有り様に感じさせられる中巻である。

 長者とは人を包含し、人のささいな罪や欠点を見ず、その長所や功績をほめてつねに処を得しめ、その人物に接するとなんともいえぬ大きさと温かさを感ずるという存在をいう。この大陸でいうところの徳という説明しがたいものを人格化したのが長者であり、劉邦にはそういうものがあった。(7頁)

 劉邦は、おそらくは純然たる善人ではない。しかし人としての器が大きいのであろう。それが、他者を引き寄せる引力となっている。

 劉邦は口ぎたなくののしったり、腹を立てたりするとき、かえって愛嬌が出てしまう。ひょっとするとひとの親分である劉邦の本質はそれではないかと思われるほどであった。(241頁)

 誉めたり肯定的なフィードバックを与えることがマネジメントの重要な行動であることは、ビジネス・パーソンにとって自明のことである。しかし、ネガティヴな感情を出したり、ネガティヴなフィードバックを与える時に着目してみることは少ない。劉邦の場合、そうしたネガティヴな言動を出す際に、そこに愛嬌が出るとしている。これは、人間という存在を考える上で面白い事象であろう。

 張良は思った。あるいは劉邦が劉邦であるのは、自分の弱味についての正直さということであるかもしれなかった。(109頁)

 劉邦を取り巻くキーパーソンの一人である張良による劉邦評である。オープンネスというと聞こえはいいが、リーダーが自分を虚飾せず、弱味も含めて正直に曝け出すということはなかなかできるものではない。しかしそうであるからこそ、劉邦のリーダーシップが際立つのではないだろうか。

 韓信のみるところ、愛すべき愚者という感じだった。もっとも痴愚という意味での愚者でなく、自分をいつでもほうり出して実体はぼんやりしているという感じで、いわば大きな袋のようであった。置きっぱなしの袋は形も定まらず、また袋自身の思考などはなく、ただ容量があるだけだったが、棟梁になる場合、賢者よりはるかにまさっているのではあるまいか。賢者は自分のすぐれた思考力がそのまま限界になるが、袋ならばその賢者を中へほうりこんで用いることができる。(171頁)

 何とも趣き深い表現である。賢い人間は、自身を過信するために他者に頼ることができず、自分の能力の限界が自分の為せる限界になってしまう。それに対して、他者に委ねられるリーダーは、他者の力をも自分の力に変えることができる。

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