小説も映画も基本的にはハッピーエンドが好きである。ハラハラとしながらも、最後に鷲津が勝ちを収める展開は、私にとって心地よいものであった。
「サムライというのは、死に場所を探すために生きることだと多くの人たちは勘違いしている。本当のサムライは、いつどこで死んでも悔いのないよう、どう生きるかを常に考えているのだ。それを政彦は言葉ではなく生き様として見せてくれるんだ。日光で二人で散歩していた時にそう語ってくれたアランの言葉が忘れられない。だが、今の君は何だね。まるで死に場所を探し求めてさまよう亡霊のようじゃないか。サムライ魂はどこかに置き忘れてきたのかね」(388~389頁)
日本人論として武士を用いることはあまり好きではない。社会学でよく言われるように、江戸時代における武士階級の人口は、全人口の数%に過ぎず、そうした階層が<日本人>を代表するという論には無理があるからだ。
しかし、そうした文脈とは離れた中において、ここでの発言には心に訴えかける何かがある。何のために生きるのか。死んでしまった近しい存在に対する償いとは何か。企業買収やマネーゲームといった泥々とした世界の中で、時代の寵児として持て囃されるが決して聖人君子ではない鷲津の生き様に魅せられた。