2016年12月18日日曜日

【第655回】『峠(下)』(司馬遼太郎、新潮社、2003年)

 恥ずかしながら北越戦争を知らなかった身としては、継之助を官軍との激戦に追いやった時代の流れに引き込まれた。時代の潮流を読み、先んじた行動を行い、ネットワークを広く持っていても、必敗の戦いへと赴かざるを得なかった長岡藩の悲運が印象的な結末である。

 「人は、その長ずるところをもってすべての物事を解釈しきってしまってはいけない。かならず事を誤る」(25頁)

 思わずハッとさせられる至言である。人は、自身の弱みのすぐそばに強みがあると俗に言われる。この言葉を反対にすれば、強みと思っているもののすぐそばには弱みがあるものであり、だからこそ、自分自身の強みを以て物事を解釈しようとすると、時に誤るのであろう。論語の「過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。」(先進 第十一・一六)を彷彿とさせる。

 私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた。
 その典型を越後長岡藩の非門閥家老河井継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。
 かれは行動的儒教というべき陽明学の徒であった。陽明学というのは、その行者たる者は自分の生命を一個の道具としてあつかわなければならない。いかに世を済うかということだけが、この学徒の唯一の人生の目標である。このために、世を済う道をさがさねばならない。学問の目的はすべてそこへ集中される。(434頁)


 著者がなぜ本書を著したのかについてあとがきでこのように述べている。侍とは何かという命題については、新渡戸を持ち出すまでもなくこれまで論じられてきた。正直、あまり興味を持てなかった。しかし、本作を上巻から下巻まで読み進める中で、継之助の合理的かつ先見的なものの見方を以てしても、自藩への想いから薩長との戦いを決断させられた背景に、侍という存在を感じずにはいられなかった。こうした観念的な何かを想定しなければ、彼の行動を説明することが極めて難解なのである。このような新しいものの見方ができたという意味でも、本作は非常に興味深い作品であった。


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