2016年12月11日日曜日

【第653回】『峠(上)』(司馬遼太郎、新潮社、2003年)

 時代の変曲点においては、様々な人物が現れるものである。著者が描く幕末から明治初期における傑物はそれぞれに特色があり、本書で描かれる河井継之助もまた、そうした人物の一人である。
 私たちは歴史の教科書で、薩摩、長州、土佐といった倒幕に関わった藩に関してや、そこから出てきた人物たちについて学ぶ。また、滅びゆく江戸幕府の最後を明るくする新選組の物語にいくばくかの共感をおぼえる。しかし、越後長岡藩に着目することは少ないのではないか。浅学な私にはそうであり、本書ではじめて同藩の河井継之助という人物を知ることになった。
 人間はその現実から一歩離れてこそ物が考えられる。距離が必要である、刺戟も必要である。愚人にも賢人にも会わねばならぬ。じっと端座していて物が考えられるなどあれはうそだ――と継之助はいった。(16頁)
 物事を考える時に一人で沈思黙考したり散策することも有効であろう。しかし、それだけで何らかの気付きを得られるのは限られた天才だけなのではないか。むしろ、多様な人と会って対話を行うことで、その過程を通じて過去の自分の価値観にとらわれない何かを掴み取ることが可能である。特に、既存の価値観や認識が通用しない変化の激しい時代においては、なおさらであろう。
 継之助の場合、書物に知識をもとめるのではなく、判断力を砥ぎ、行動のエネルギーをそこに求めようとしている。(309頁)
 ついつい知識をもとめる読書をしてしまいがちな私にとって、興味深い指摘である。本を読むことによって、行動を起こすという発想は面白い。加えて、表面的で即効性のある浅い書物ではなく、含蓄があって難解な書籍を何度も読み返すことで、自分自身の行動に繋げると述べているということに着目したい。
 「先生の日常になさることを学びたくて参ったのでございます」(400頁) 
 師を求めて、備中松山に山田方谷を尋ねた継之助。彼が、方谷から講義はしないし指導はしないと言われた後に述べた言葉が上に引用した箇所である。尊敬する人物が発言している内容に注目することはたやすい。しかし、本当に学ぶためには、彼()の視線の先に何があるかを身近で観察し、そこから洞察することが重要なのではないか。それが師事するということなのかもしれない。


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