労働法で企業と個人とを捉えるとどのようになるのか。本書を紐解くことで、労働法の歴史から理解しながら、現代の私たちが企業で働く上で知っておきたい基礎的な考え方を学ぶことができる。労働法の各論を詳しく知ろうとする方には概要にすぎると思われるかもしれないが、大枠を掴んで理解しようという目的の読書であれば、示唆に富んだ読書体験を得られるだろう。
どうして未来への希望にあふれているはずの若者が、こんな悲壮な覚悟で社会に出ていかなければならないのでしょうか。本書では、その理由を「雇われて働く」とはどういうことなのか、というところから説き起こしていきます。
本書では、「雇われて働く」ことは実は「奴隷」と変わらない面があること、こうした状況を改善するために労働法があること、さらに正社員という身分を獲得できると、企業からの優遇があり、この状況はもっと改善されること、しかしこれからの時代は、労働法もどうなるかわからず、正社員の枠も減っていくことを、順を追って説明しています。
そうしたなか、最終的にめざすべきことは、「やりたくない仕事はしなくてよい」と言えるような自分になることです。たとえば、不本意な仕事であると思うならば、会社を辞めて転職できるようにするのです。あるいは、そもそも人に命じられず、自分の力で働く自営業者になるという道もあります。
そのときに大事なことは、「仕事のプロになる」ことです。(6~7頁)
労働法の先生が労働という現象をこのように描き、プロフェッショナルのキャリアの必要性を説いていることは興味深い。企業が労働者に対して保障したり、国家が企業に一定の制約をかけて労働者を保護することは大事であるし、労働法が発展してきた背景にはこうした考え方があることは間違いない。しかし、そうした外部主体に依存するのではなく、自分で自分のキャリアに責任を持ち、エンプロイヤビリティを高めることで、企業と対等に渡り合えるようなプロになることの重要性がここでは指摘されている。
必要なのは、能力の劣る正社員を解雇しやすくして、正社員のポストを明け渡すことができるようにすることであり、それによって非正社員が正社員ポストを獲得する「可能性」を作り出すことです。(66頁)
一企業の人事の立場で述べると問題発言となるかもしれない。しかし、マクロ環境を鑑みれば、この考え方は充分に首肯できるものなのではないか。正社員と非正社員という決して適切とは言えない分類を無意味化するためには、ポストの入れ替えを促す仕組みづくりが適していると思われる。
ブラックかどうかというのは、個人と企業との相性という面もあるのです。だからこそ、個々の企業がブラックかどうかを判定することよりも、働く側にとって企業を選ぶ際に参考になる情報ができるだけ開示されるようにすることが必要になります。そして、それをブラックと判断するかどうかは、個々人の判断にゆだねるほうがいいのです。(90頁)
ブラック企業という言葉に続き、ホワイト企業という言葉も最近では出てきた。そこにおぼえる違和感を、言語化してくれたように感じるのは飛躍であろうか。もちろん、どうしようもない企業を「ブラック企業」として摘発することは必要であろう。そうしたアナウンスメント効果によって、企業におけるルールが適正化される。しかし、ある程度は個人側の意識に依存するのであるから、客観的に杓子定規で企業を断罪するような運用は避けたいものだ。
外国から来た留学生が必死に勉強するのは、スキルを身につけるのは自分の責任であると考えているからです。一方、日本の大学生の多くは、驚くほど勉強しません。スキルを身につけるのは、企業に入ってからで、企業にすべてまかせているのです。そして、これが「従属」への入口となるのです。(157頁)
海外の留学生と比べて日本の大学生がなぜ学ばないのか。企業でキャリアをすすめる上で、日本の企業ではスキルを前提として求められず、ポテンシャルで評価がなされる。それ故に、大学において何かを身につけたり自分自身を高めようという誘因が弱くなる。海外においてはそれと反対であるために、彼我の学生の意識の差が表れるというのは納得的な説明である。加えて、こうした成長を企業に委ねる姿勢が、企業への従属に繋がるのであるから、皮肉なものである。
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