2017年3月25日土曜日

【第691回】『『臨済録』を読む』(有馬頼底、講談社、2015年)

 『臨済録』は印象深い書であった。臨済の口をして「仏に逢えば仏を殺し」と述べさせている箇所は、全くの門外漢からすると、甚だ意外どころか、何事かと目を見紛うフレーズである。その解説を、臨済宗の高名な僧であり、あの金閣・銀閣の住職も兼ねる著者が行うという贅沢な一冊である。

「公案」でやられる。徹底的にやられる。臨済禅は「看話禅」です。「公案」を拈提し、答を出す。しかし答はないんです。
 それで精神的に追い込まれる。何を言ってもダメ、それなら何を言うんだ、と。全部ダメ。もう取り付く島がない。それは苦しいです。この苦しさは殴られる痛さの比ではありません。どうしていいかわからなくなるのですから。(21頁)

 この部分を読んで、禅問答が苦しい理由とともに、その意義深い理由を初めて垣間見た気がする。問われても答えはないのである。ないから考え続け、答えては否定され続ける。この不毛とも思える繰り返しを続けることで、何らかの学びや気づきを得られることも保証されない。それでも考え続け、答えようとし続けること。

有馬 そうそう。『臨済録』の中で、修行者が質問するでしょ。何かを言おうとすると、バーンとどつかれる。なんでどつくかと言うとね、その質問が合っているとか間違っているという問題じゃない。質問を出すこと自体を打ち砕く。だからバーンと叩く。(221頁)


 問いは大事である。しかし、他者に安易に何かの答えを聞き出そうとして問うのは良いことではない。自分よりも優れた存在に対して、何かを聞いて学ぼうとすることの拙さが示唆されているのではないだろうか。拡大解釈なのかもしれないが、このように読むことによって、他者に安易に尋ねることを控えようという気持ちに至れる。


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