2018年2月10日土曜日

【第806回】『コインロッカー・ベイビーズ(上)』(村上龍、講談社、1984年)

 現代小説をほとんど読んでいなかった頃、村上春樹と村上龍を混同することがよくあった。最近になって村上春樹の作品が好きになってきたので、単純な気持ちで、村上龍の作品も読もうと思った。当然だが、苗字が同じだからといって文体が似ているわけはない。新しい作家の書籍を読むときのちょっとした高揚感を持ちながら、新鮮な気持ちで読み進められた。

 理由はわからないが突然何もかもいやになったのである。鳥の景色、海の輝き、乾いた魚の匂い、坂道に咲くカンナ、犬の鳴き声と仕草、棒で跳ぶこと、全てがいやになった。飽きたのだ、と自分では思った。特に、運動場に吹く海からの生暖かい風が我慢できなかった。(88頁)

 棒高跳びに夢中になっていた主人公の一人が、そのアイデンティティにもなっていたものをあっさりと諦めようとするシーンである。この場面もそうだが、読み手が予定調和的に先を予測しながら読むと、スピードがあまりに速いし、かつ変化も多い。緊張感を持ちながら読まさせられる。

 本当は、歌手になるのではなくて歌手として生まれてきたかった。歌手になる前の僕は死んでいた、笑いたくないのに言われるままに笑う焦点のぼやけた写真の中の人物だった、歌手になる前の僕をずっと過去に遡っていくと怯えて泣いている裸の赤ん坊がいるだろう、箱の中で薬を振り掛けられて仮死状態のまま見捨てられていた赤ん坊だ、これまでずっとそうだった、僕は歌手になって初めてコインロッカーの外へ出ることができたんだ、仮死状態の自分が嫌いだ、仮死状態で住んでいた場所はみんな爆破して消してしまいたい。(191頁)


 主人公の二人は、母親に捨てられ、コインロッカーで発見された出自を持つ。出自がこうした状態だと、他者に対して、社会に対して、そして自分自身に対して「複雑」とだけでは形容できない不安定な状態になるのであろう。わかったとは言えないが、わからないことに想像を持つことができるようになる書籍である。


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