2018年2月12日月曜日

【第808回】『魔球』(東野圭吾、講談社、1991年)

 本書を読む直前に、救いのないプロットの小説を読んだからか、人間の優しさや尊さが染み渡ってきた。著者の小説を読むのは数年ぶりである。以前読んだものも、殺人事件ではあるが、そこには理由があり、他者を愛することや生きることについて考えさせられた。

 本作も考えさせられた内容は近しい。もちろん、殺人は絶対に犯してはならない行為であり、その結果は周囲にも悲しい結果を招くことは本作でも描かれている。しかしそれと同時に、人が何を考え、何を感じ、どのように行動するか、という過程にも私たちは目を向ける必要があるだろう。

 悪い結果を悪い結果として捉えるのではなく、なぜそうした結果を招いたのかという過程を具に観察し、他人の行動や思考を追体験して気づきを得ること。単なる性悪説や性善説といった二元論に逃げるのではなく、その間に留まって他者に寄り添いながら事実を冷静に観察すること。

 それが生きることであり、他者と豊かな関係性を紡いでいくということなのではないだろうか。

 だが私は知っている。母がふと遠くを見る目をすることを。そして彼女が何を見ているのかも知っている。なぜならそれは私が見るものと同じだからだ。これから先、どれだけ時間が経とうとも、それは決して私たちの心から消え去ることはない。永遠に消えないのだ。青春を賭け、命を賭けて、私たちを守ろうとした人がいたことだけは。(318頁)


 物語の締め括りに後日談として手記を用いているところが、漱石の後期三部作を彷彿とさせた。そしてその内容が、本書の主要な登場人物の複雑な愛に溢れた言動を見事に描写していて、心地の良い読後感を得られた。


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