2018年2月18日日曜日

【第810回】『西郷南洲遺訓』(山田済斎編、岩波書店、1939年)

 NHKの「100分de名著」で興味を抱き、そこで扱われている書籍を読み始めるパターンが私の中であり、本書はその典型例である。司馬遼太郎からは『翔ぶが如く』でネガティヴに描かれ、内村鑑三からは『代表的日本人』で賞揚されている西郷隆盛。その人物の評価は難しいのであろうが、評価が多様に分かれるというのは興味が湧く。

 薩長同盟や江戸城無血開城といった幕末における活躍が好意的に評価されるのに対して、西南戦争に於いて主体性を失ったとも言われるが言動が否定的に捉えられる。こうしたくっきりと対照を為す構図があるからこそ、西郷に対する評価は分かれ、だからこそ面白さが増すのではないか。

 本書では、西郷が語ったとされる言葉の数々が提示されている。後世の歴史家による毀誉褒貶から学ぶことも重要であるが、読者である私たちが直接彼の言葉からその言動を評価するというのも良いのではないか。

人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

 企業組織における人事部門で働く身として、心して読みたい箇所である。仕事ができる人物に対して、上司や人事部門は期待を持つ。もっとできると考えてより幅広い役割や重たいポジションを用意することが本人のためであると思ってしまう。しかし、その人物の成長可能性を判断することが重要である。過剰な期待は、その人物を却ってダメにしてしまう可能性がある。

二五
人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。

 立腹したり義憤を感じる際に、私たちは相手に対して怒りを感じる。しかし、他者を見るのではなく、他者や自分自身を引いた目で見ている天という視点を持つことが大事である。そうすることで、狭い範囲での短い時間における怒りという一時的な感情に捉われず、自分自身を律するという考え方を持ちたいものである。

二九
道を行ふ者は、固より困厄(こんやく)に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動す人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を楽み、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ道を楽む可し。予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。


 知識があるかどうか、スキルが高いか低いか、といった他者から見てわかりやすいもので私たちは一喜一憂してしまう。また、持っていなければ自信を失い、持っている他者に対して羨望の眼差しを向ける。しかし、私たちが大事にしなければならないものは、道として自身が信じるものを心に持ち、ひたすら進もうとすることである。他者との比較で浮き沈みが落ちてしまいそうな時に思い出したい言葉である。


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