2018年5月27日日曜日

【第840回】『石原莞爾ー愛と最終戦争』(藤村安芸子、講談社、2017年)


 石原莞爾は日本陸軍を満州事変へと主導した人物であり、ひいては日中戦争および太平洋戦争へと至らしめた人物であると認識している。詳細は『昭和史1926−1945』『昭和陸軍全史1 満州事変』に詳しいが、この認識は大筋では誤ってはいないだろうし、その責任が重たいものであることは間違いない。

 しかし、本書では彼の思想とその背景に対する深い洞察が描かれており、後世を生きる私たちが、彼を否定すれば済む話ではないことがよくわかる。以前のエントリーでも書いた通り、ある時代のパラダイムを創り出した人物の考え方は、論理的であり納得的な側面がある。特定の人物を頭から否定するのではなく、謙虚に学び、考える力を養うことが私たちには求められるのではないか。

 石原の思想を、法華経と妻・銻への愛という二つのキーワードを基に述べ、世界最終戦争へと辿る変遷を本書では説明している。その結論は論理的であり、あの時代における陸軍の天皇に対する想いや考え方が以下に端的に現れている。

 本書がたどってきた石原の思索の歩みをふり返ると、それが直接性の追求から間接化の実現への変容であることに気付く。石原の最初の願望は、銻との「一心同体」をめざす試みや、頻出する「不惜身命」に現れているように、性急に相手との合一をめざすものであった。この前提から考えたとき、戦争ののち統一が実現するとの論は、どこか、殴り合ったあとに抱き合うような徹底的に身をまかせあう印象があろう。けれども最終的に石原の思想がたどりついたのは、すべての人のあいだに天皇が存在することによって平和が実現するという、間接化の徹底ともいうべきあり方であった。そこでは平和は、初期の印象とは逆に、相手との距離をとるというありようとなっている。平和が、直接性の徹底ゆえに見出されるものから、直接性の断念ゆえに見出されるものへと変化したのである。(233頁)

 本筋とは関係がないが、興味深いと思ったのは、宮沢賢治と石原莞爾との共通点について触れられた箇所である。宮沢の文章は、私には正直よくわからないのであるが、その物語には法華経の精神と共鳴するものがあるのかもしれない。

 自然にはたらきかける技術として法をとらえうることは、宮沢賢治の思想を考えてみると、よりはっきりする。石原と同じ大正九年に国柱会に入会した宮沢は、その座右の書が法華経と『化学本論』であったことからも分かるように、仏教と自然科学にもとづいて、自らの世界観を組み立てていった。(105頁)

【第831回】『ほんとうの法華経』(橋爪大三郎/植木雅俊、筑摩書房、2015年)
【第829回】『徳川時代の宗教』(R.N.ベラー、池田昭訳、岩波書店、1996年)

2018年5月26日土曜日

【第839回】『実践!フィードバック』(中原淳、PHP研究所、2017年)


 本書は、著者が以前に著した『フィードバック入門』をより実務の場面に合わせて実践的に噛み砕いた書である。細かな解説や例示など痒いところに手が届く書であり、初めて部下を持つマネジャーにとっての最適な入門書である。管理職研修を受けてもしっくりこなかった方は、本書を繰り返し紐解いた方が良いのではないか。

 著者はフィードバックを「「ティーチング」と「コーチング」の両方をあわせもった、より包括的で画期的な部下育成の手法」(16頁)と定義している。

 ここ十数年、コーチングという手法が注目され浸透してきたが、コーチングは万能という訳ではない。新入社員のように、アサインされた業務に必要な職務経験が全くない相手に対してコーチングを行っても、相手は困るだけであったりする。それでも質問と傾聴のみを重ねることは、上司にとっても部下にとっても不毛な時間が過ぎるだけにすぎない。ティーチングも有効な手段であることを端的に定義の中で示していることは、ともするとコーチングばかりに注目させられている初級管理職にとって役に立つ指摘であろう。

 さらには、フィードバックが有効であると述べるだけではなく、フィードバックを行う上での重要な前提についても以下のように具体的に指摘している。

 なぜなら、部下に刺さるようなフィードバックをするためには、「できるだけ具体的に、部下の問題行動を指摘すること」が必要だからです。フィードバックは思いつきではできません。また、フィードバックはなんとなくもできません。そのためには事前にしっかりとした「観察」や「情報収集」を行うことが必須です。(44頁)

 ある手法が有効であると習うと、いきなりその手法に走るという方は決して少なくない。しかし、良かれと思って行ったことが逆効果になると、一転してその手法を行わなくなってしまう。そういった意味では、上記のようなその手法が効果を発揮するための準備を述べていることは、読者にとってありがたい指摘であろう。

 また、率直なフィードバックの有効性を述べた上で、厳しいフィードバックの後にフォローしたくなる読者を想定し、「フォローで無駄にほめる行為は百害あって一利なし」(96頁)と断言する。読者の心理に基づいた行動を先回りし、端的に述べられると心地よい。

 最後に注目したいのは1on1である。昨今ではヤフーでの取り組み事例が有名になり、流行しつつある取り組みである。ともすると、単に一対一で話す機会を増やせばいいと思われがちであるが、具体的に聴くべきポイントを169頁で三つ指摘している。

(1)部下自身の仕事の報告
(2)職場で起こっていること
(3)部下の中長期のキャリア

 (1)だけに偏るのではなく、(2)によって他の同僚がどのような状況であったり職場の人間関係で留意すべきことがあるかどうかを自然なコミュニケーションで把握できる。また、(3)を日常的な話題にすることで、パフォーマンス・マネジメントの期初や期末における面談で硬い雰囲気の中でキャリアについて語るという事態を防ぐことができるのではないか。

【第113回】『経営学習論』(中原淳、東京大学出版会、2012年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)
【第727回】『人材開発研究大全』<第1部 組織参入前の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第728回】『人材開発研究大全』<第2部 組織参入後の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第729回】『人材開発研究大全』<第3部 管理職育成の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第730回】『人材開発研究大全』<第4部 人材開発の創発的展開>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)
【第804回】『働く大人のための「学び」の教科書』(中原淳、かんき出版、2018年)

2018年5月20日日曜日

【第838回】『天才』(石原慎太郎、幻冬舎、2016年)


 著者が田中角栄だったら何を語るかという視点でモノローグを記す。あとがきで著者自身が記しているように、自民党時代の様々な両者の関係性を考えれば、甚だ意外な作品であり、ベストセラーとなった一因ともなっているだろう。

 読ませる作品である。また、考えさせられる作品でもある。稀代の政治家が何を考え、どのように人を束ね、組織を率いてきたのか。

 さらにはロッキード事件とは何だったのか。著者によれば、あの事件は、直前にアメリカの頭越しに中国との国交回復へ踏み切った田中角栄の行動をよく思わなかったアメリカ政府による誘導であったとしている。その上で、田中角栄の政治にかける想いを以下のようなモノローグとして描き出している。

 要は誰がいかに発想して土地と水と人間たちを救うかということだ。そうした新しい発想の実現でつくり出した金を、俺は俺自身のために用立てたことなどありはしない。それはすぐれた経営者や政治家にとっても同じことだろうが。他人の出来ぬ着想と発想で新しく何を開発するかということだ。俺が手掛けてきた俺の発想に依る四十に近い新しい議員立法にせよ、新規の外交方針にせよ、同じ原理ではないか。(162頁)

 公共心と、その手段の正当性について考えさせられる。

【第426回】『<民主>と<愛国>』(小熊英二、新曜社、2002年)
【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

2018年5月19日土曜日

【第837回】『読書と社会科学』(内田義彦、岩波書店、1985年)


 「なぜ本を読むのですか」という質問にはいつも当惑する。そのように問われると、咄嗟に口ごもり、うまく答えられない。何をどのように答えても、自分自身で言い得ていない感覚に陥ることになる。だから、訊かれたくない質問になっているのであろう。

 本書を読み、読書の意義について考えさせられた。とりわけ、経済学者である著者の手になるためであるか、僭越ながら勝手に親近感が湧き、得心する部分が多かった。これで、これまで嫌いだった質問にも、少しはまともに回答ができるようになったかもしれない。

 論語読みの論語知らずといいますね。字面の奥にある「モノ」が読めてこなきゃなりません。本をではなくて、本で「モノ」を読む。これが肝心で、つまり、真の狙いは本ではなくてモノです。まして、本に読まれてモノが読めなくなるような読み方では困りますね。(3~4頁)

 冒頭から、著者の鋭い指摘に肝を冷やされた。読むという行為はインプットという印象が強い。正直に言えば、私の読書はインプットに重きが置かれてしまっている。よく言えば素直に理解しようとしており、悪く言えば、批判的に書に向き合うことが弱いということであろう。

 しかし、時に読みながら自分の生活や仕事における着想が湧いたり、読んだ後に温泉でふと「あの一節はこれに繋がるのでは」と思い浮かぶ読書体験が、たしかにある。そうした瞬間は心地よいというかほっと一息つける感覚がある。それによって、仕事上の軽い悩みが解決したり、新しい閃きにエキサイティングな気持ちが持てるのである。これが、本でモノを読むということの端緒なのかもしれない。

 私の場合は、ラッキーパンチによる気づきであったが、著者は、どのように書に向き合うことでモノを読むことができるかについても述べている。

 古典は一読明快ではない。深く、踏みこんで読まねばと、さきほど申しあげました。古典の真髄、古典の古典たるゆえんは、踏みこんで、深読みしてーー本文との格闘をくりかえしてーー初めてわかる。それは御了解いただいたと思いますが、しかし、信じてかからなきゃ踏みこめないじゃないですか。(36頁)

 浅い書籍は浅い読書で良いのだと思う。それはそれで得られるものはあるが、しかし、時代が変化すれば、また自身の環境が変化すれば、そこから学べるものは非常に少ない。それに対して、古典と呼ばれるような学びの深い書物に対しては、虚心坦懐にじっくりと時間をかけて、また時間を置いて挑み続けることが求められる。しかし、それによって得られるものは大きい。

 では、古典とは何か。著者は、それは必ずしも古い書籍ではなく、以下のような興味深い定義をしている。

 新奇をねらわなきゃ通用しないものは古典ではない。忠実な読みによって、その都度中身の新鮮さを呼び覚ます働きをもつものが、古典です。古くても新しくても。(85頁)

 冒頭で引用した論語はまさに古典の典型であろう。もちろん、人によって、好き嫌いはあるだろう。しかし好きな人にとっては深く学べる書であり、再読しながら、自身が印象を強く持ち、現実への当てはめが促される箇所は驚くほど異なる。

 学問を「学問として」うけとっちゃ駄目だ。ずぶの素人になり切ること。学問によりかからず、自由を希求する一個の自由な人間として、自分の眼をぎりぎり使い、自分の経験を総動員しながら学問にきく。そういう体あたりの努力によって、学問は初めて有効に身についてくるものです。(99~100頁)

 古典に向き合う際には、既存の知識によって高飛車な姿勢で臨むのではなく、自分自身の経験という武器を用いて謙虚に取り組むこと。そうすることで、古典は、私たちの血となり肉となるのかもしれない。

 こうした書籍との知的格闘に役立つのが、書くという作業である。

 本をていねいに読むためには、読みっぱなしにせずに、書くという作業で感想をまとめておくことが大切で、読み深めに不可欠の作業です。それも、本に線をひいたり、書きこみを入れたりから始まる自分の感想をノートという形で自分用に文章化するだけではなくて、感想文という、これは、ささやかながら公開を前提とした文章ですね、自分の思うところを他の人にも納得してもらう目的で書かれた公けの文章。短いながら、そういうものとしての感想文を書くことは、本を読む上に絶対に必要です。(51頁)

 インプットしたものをああでもないこうでもないと思考(スループット)することは難しく、加えて他の人を想定してアウトプットすることは時間がかかる。言い換えれば、それだけ考えながら書き進め、納得できないところを修正して文章を創り上げるという作業によって、その本と向き合うことになるのであろう。このような意味で、知的生産性を高める便利なメディアであるブログがある時代に生まれた僥倖に感謝せずにいられない。

【第357回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【3回目】

2018年5月13日日曜日

【第836回】Number951「ICHIRO BACK TO MARINERS 2018」(文藝春秋、2018年)


 本号は、イチローが今期のメジャー出場がなくなるというニュースが出る前のイチローへの取材記事が掲載されている。今となっては、その後の心境や新しい契約への想いについて触れたいという気持ちもあるが、イチローのプロフェッショナルとしての考え方や行動について考えさせられる。彼のインタビュー記事は、毎回、異なる学びがあるから興味深いし、考えて行動し続けてきた足跡が彼の言葉となって現れているのであろう。

ーーでも、泰然という状態は「プレイヤーとしても人間としても常にそうでありたいという、目指すべき状態」だと仰っていましたよね。
「そこは矛盾してるんですけど、焦ることができる自分も時には必要だったりするんです。マリナーズと契約した直後の会見で『オフの間、心が折れることはなかったか』と訊かれたとき、『そういうことがあったら泰然とは言えない』と答えたんですけど、でも神戸で寒い中、一人で打っていたら、そりゃ、心、折れますよ(笑)。(中略)でも、やればよくなるという結果が見えているから、続けられるんです」(20頁)

 泰然という精神状態は、イチローのみならず私たちにとっても理想的と思われる状態と言えるのではないか。イチローはそれを理想としながら、焦ることがなかった自分自身に対して違和感をおぼえてもいたという。

 それでも、自分自身がより良くなれるという積み重ねられた自信を基に、努力を黙々と続けて、マリナーズ復帰というチャンスを得た。もちろん、努力を重ねても外部環境が整わなければ実らないことは多々あるだろうが、努力によって準備が整っていなければチャンスを結実させることはできない。言い古されたことではあるが、イチローの言葉を読んでいくと感じ入ることがある。

ーーそれだけ心が折れる出来事が重なりながら、結局はそれを乗り越えていく……。
「よく、人より頑張ったからとか、何倍も練習してきたからこういう結果が出るんだって言われますけど、そうじゃない。人の何倍もの努力なんて、できっこないんです。ただ、自分の限界を少しだけ超えることを重ねてきたんです。自分なりの歩みを進めていくということを、ただただ重ねてきた。そうやって歳を積み重ねてきただけの自信があったから、心が折れようとも泰然としていられた、ということなのかもしれません」(20頁)

 イチローの小学生の頃の作文はあまりにも有名であり、彼の努力量に対して疑う人は誰もいない。その彼自身が、努力の量ではなく、「限界を少しだけ超える」という努力の質について示唆していることに刮目すべきだろう。

 管理職トレーニング等で、ストレッチ・アサインメントという概念がよく言われる。これは、上司による部下へのアサインメントの際に、少しチャレンジングな内容を含ませることで部下の成長を促すというものである。しかし、イチローの言葉を借りれば、自分自身で少しチャレンジを心がけ、それを続けることこそが、努力するということの意味なのかもしれない。

【第828回】Number950「大谷翔平 夢の始まり。」(文藝春秋、2018年)
【第449回】『イチロー・インタヴューズ』(石田雄太、文藝春秋、2010年)
【第411回】『屈辱と歓喜と真実と』(石田雄太、ぴあ、2007年)
【第197回】Number836「イチロー 不滅の4000本。」(文藝春秋、2013年)

2018年5月12日土曜日

【第835回】『ドイツ・オーストリア』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 日本で描かれた作品とも、北欧で描いた作品を集めた『森と湖と』で取り上げられた作品とももまた違う、印象を抱いた。ドイツやオーストリアで描いた作品を集めた本作では、人工物を対象としたものが多いように思え、その中に人の生活の蓄積としての文化が描かれているように感じる。

 そこには、その土地で生きる人々への尊敬と、そうした人々が創り出した構造物への尊重が描かれているのではないだろうか。

「東山魁夷 晩鐘」の画像検索結果

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)

2018年5月6日日曜日

【第834回】『京都の壁』(養老孟司、PHP研究所、2017年)


 『バカの壁』以来、久しぶりに著者の書籍を読もうと思っていたところ、本書のタイトルに惹かれた。京都はオープンな土地柄ではない、京都人はよそ者に対して心を開かない、といったことがまことしやかに言われる。他の地域から転居して来た身としては気になる言い分であるが、果たして本当にそうなのだろうか。

 著者の仮説は至極単純明快である。京都および京都の人々が持つ特徴は、日本および日本人が持つそれの縮図にすぎない、というのである。

 「開けてはいけない」「入ってはいけない」という心理的な障壁が、京都に城郭がない理由です。城郭はないけれど、代わりに心理的な壁をつくったのです。それが今も京都には残っていて、「よそ者は入れない」というわけです。(27~28頁)

 京都人はよそ者に冷たいのではなく、一歩引いて、対立しないよう適度に距離を取る術に長けているのである。京都の朝廷を担ぐ権力主体が入れ替わっても、新しい権力主体と距離を保ちながら良好な関係を継続して来たのが京都の人々である。物理的な壁を作って中心を守ろうとするのではなく、中心に入ってきた対象に対して心理的な壁を作ることで相互依存の関係性を築いてきたのであろうか。

 京都の雰囲気は京都に来てこそわかるもの。だから私も含めて、人は京都に足を運ぶのでしょう。たとえそこに、見えない「京都の壁」があったとしても。そして、その京都の壁は、本来は京都だけではなく、日本の街には必ず存在していた地域共同体の壁なのです。(201~202頁)

 相互依存関係を維持・継続してきたからこそ、京都に何度も訪れたくなる人々というコアなファンは、日本人でも外国の方でも多くいるのであろう。心理的な壁は、長期的に続く安定的な関係性を守るために作られたものと捉え、排除のためのものと捉えないことが、健康的なものの考え方かもしれない。

【第410回】『京都花街の経営学』(西尾久美子、東洋経済新報社、2007年)
【第827回】『京洛四季』(東山魁夷、新潮社、1984年)

2018年5月5日土曜日

【第833回】『森と湖と』(東山魁夷、新潮社、1984年)


 著者の日本の各地を描いた風景画は美しい。風景画というジャンルが同じであれば、日本であろうと、海外であろうと、描かれた作品は変わらない、と思っていた。しかし、本書で描かれている北欧の景色を眺めていると、素人考えとしては「これが東山魁夷の作品なのか」と驚かされた。

「静暁 東山魁夷」の画像検索結果

 海外、特に北欧を著者が描こうとしたのはなぜなのか。その理由は本書の最後に端的に記されている。

 なぜ、北欧を旅して、私が心の故郷に巡り合ったのか。北欧の自然と、町と、そこに住む人々に対して、あれほど心を通い合わすことが出来たのか。私の北方的要素は、北方の人でない私、むしろ南の人間であるべき私の上に、積み重ねられたものである。私が根本的に北国の人間であるなら、おそらく光の豊富な南方へ憧れたであろう。だからこういう本質を持つ私が北の風物の中で心を打たれるのは、むしろ、寒さの中での暖かさであり、暗さの中での明るさ、生に対して苛酷な条件の中での生の輝きというように、本当に北方的な極限の姿ではなくて、北の要素の中にほの見える南の要素であるとも考えられる。だから、私は北国が雪と氷に蔽われ、寒風の吹きすさぶ姿を、いっそう北国らしい姿であると見るのだが、私の描いが雪は春を待つ雪であった場合が多い。
 あの北欧の旅で私の心を打ったのは、自然と人との営みの中に、静かでつよい生の感動を読みとったからである。(148~149頁)

 横浜で生まれて神戸で育った著者は、北国育ちではない。だからこそ、北国の環境の厳しさ、そこで生きる人々の強靭さに魅かれたのだという。そうして著者の想いが込められた作品だからこそ、それを鑑賞する私たちに響くものがあるのだろう。

【第562回】『名画は語る』(千住博、キノブックス、2015年)