『バカの壁』以来、久しぶりに著者の書籍を読もうと思っていたところ、本書のタイトルに惹かれた。京都はオープンな土地柄ではない、京都人はよそ者に対して心を開かない、といったことがまことしやかに言われる。他の地域から転居して来た身としては気になる言い分であるが、果たして本当にそうなのだろうか。
著者の仮説は至極単純明快である。京都および京都の人々が持つ特徴は、日本および日本人が持つそれの縮図にすぎない、というのである。
「開けてはいけない」「入ってはいけない」という心理的な障壁が、京都に城郭がない理由です。城郭はないけれど、代わりに心理的な壁をつくったのです。それが今も京都には残っていて、「よそ者は入れない」というわけです。(27~28頁)
京都人はよそ者に冷たいのではなく、一歩引いて、対立しないよう適度に距離を取る術に長けているのである。京都の朝廷を担ぐ権力主体が入れ替わっても、新しい権力主体と距離を保ちながら良好な関係を継続して来たのが京都の人々である。物理的な壁を作って中心を守ろうとするのではなく、中心に入ってきた対象に対して心理的な壁を作ることで相互依存の関係性を築いてきたのであろうか。
京都の雰囲気は京都に来てこそわかるもの。だから私も含めて、人は京都に足を運ぶのでしょう。たとえそこに、見えない「京都の壁」があったとしても。そして、その京都の壁は、本来は京都だけではなく、日本の街には必ず存在していた地域共同体の壁なのです。(201~202頁)
相互依存関係を維持・継続してきたからこそ、京都に何度も訪れたくなる人々というコアなファンは、日本人でも外国の方でも多くいるのであろう。心理的な壁は、長期的に続く安定的な関係性を守るために作られたものと捉え、排除のためのものと捉えないことが、健康的なものの考え方かもしれない。
【第410回】『京都花街の経営学』(西尾久美子、東洋経済新報社、2007年)
【第827回】『京洛四季』(東山魁夷、新潮社、1984年)
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