2018年5月19日土曜日

【第837回】『読書と社会科学』(内田義彦、岩波書店、1985年)


 「なぜ本を読むのですか」という質問にはいつも当惑する。そのように問われると、咄嗟に口ごもり、うまく答えられない。何をどのように答えても、自分自身で言い得ていない感覚に陥ることになる。だから、訊かれたくない質問になっているのであろう。

 本書を読み、読書の意義について考えさせられた。とりわけ、経済学者である著者の手になるためであるか、僭越ながら勝手に親近感が湧き、得心する部分が多かった。これで、これまで嫌いだった質問にも、少しはまともに回答ができるようになったかもしれない。

 論語読みの論語知らずといいますね。字面の奥にある「モノ」が読めてこなきゃなりません。本をではなくて、本で「モノ」を読む。これが肝心で、つまり、真の狙いは本ではなくてモノです。まして、本に読まれてモノが読めなくなるような読み方では困りますね。(3~4頁)

 冒頭から、著者の鋭い指摘に肝を冷やされた。読むという行為はインプットという印象が強い。正直に言えば、私の読書はインプットに重きが置かれてしまっている。よく言えば素直に理解しようとしており、悪く言えば、批判的に書に向き合うことが弱いということであろう。

 しかし、時に読みながら自分の生活や仕事における着想が湧いたり、読んだ後に温泉でふと「あの一節はこれに繋がるのでは」と思い浮かぶ読書体験が、たしかにある。そうした瞬間は心地よいというかほっと一息つける感覚がある。それによって、仕事上の軽い悩みが解決したり、新しい閃きにエキサイティングな気持ちが持てるのである。これが、本でモノを読むということの端緒なのかもしれない。

 私の場合は、ラッキーパンチによる気づきであったが、著者は、どのように書に向き合うことでモノを読むことができるかについても述べている。

 古典は一読明快ではない。深く、踏みこんで読まねばと、さきほど申しあげました。古典の真髄、古典の古典たるゆえんは、踏みこんで、深読みしてーー本文との格闘をくりかえしてーー初めてわかる。それは御了解いただいたと思いますが、しかし、信じてかからなきゃ踏みこめないじゃないですか。(36頁)

 浅い書籍は浅い読書で良いのだと思う。それはそれで得られるものはあるが、しかし、時代が変化すれば、また自身の環境が変化すれば、そこから学べるものは非常に少ない。それに対して、古典と呼ばれるような学びの深い書物に対しては、虚心坦懐にじっくりと時間をかけて、また時間を置いて挑み続けることが求められる。しかし、それによって得られるものは大きい。

 では、古典とは何か。著者は、それは必ずしも古い書籍ではなく、以下のような興味深い定義をしている。

 新奇をねらわなきゃ通用しないものは古典ではない。忠実な読みによって、その都度中身の新鮮さを呼び覚ます働きをもつものが、古典です。古くても新しくても。(85頁)

 冒頭で引用した論語はまさに古典の典型であろう。もちろん、人によって、好き嫌いはあるだろう。しかし好きな人にとっては深く学べる書であり、再読しながら、自身が印象を強く持ち、現実への当てはめが促される箇所は驚くほど異なる。

 学問を「学問として」うけとっちゃ駄目だ。ずぶの素人になり切ること。学問によりかからず、自由を希求する一個の自由な人間として、自分の眼をぎりぎり使い、自分の経験を総動員しながら学問にきく。そういう体あたりの努力によって、学問は初めて有効に身についてくるものです。(99~100頁)

 古典に向き合う際には、既存の知識によって高飛車な姿勢で臨むのではなく、自分自身の経験という武器を用いて謙虚に取り組むこと。そうすることで、古典は、私たちの血となり肉となるのかもしれない。

 こうした書籍との知的格闘に役立つのが、書くという作業である。

 本をていねいに読むためには、読みっぱなしにせずに、書くという作業で感想をまとめておくことが大切で、読み深めに不可欠の作業です。それも、本に線をひいたり、書きこみを入れたりから始まる自分の感想をノートという形で自分用に文章化するだけではなくて、感想文という、これは、ささやかながら公開を前提とした文章ですね、自分の思うところを他の人にも納得してもらう目的で書かれた公けの文章。短いながら、そういうものとしての感想文を書くことは、本を読む上に絶対に必要です。(51頁)

 インプットしたものをああでもないこうでもないと思考(スループット)することは難しく、加えて他の人を想定してアウトプットすることは時間がかかる。言い換えれば、それだけ考えながら書き進め、納得できないところを修正して文章を創り上げるという作業によって、その本と向き合うことになるのであろう。このような意味で、知的生産性を高める便利なメディアであるブログがある時代に生まれた僥倖に感謝せずにいられない。

【第357回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【3回目】

0 件のコメント:

コメントを投稿