2019年5月25日土曜日

【第957回】『ユング心理学入門』(河合隼雄、河合俊雄編、岩波書店、2009年)


 フロイトを少し学ぶ過程で、フロイトとユングの違いが気になり始めた。そこで著者の解説を読もうと思い読み進めたが、本当に興味深い。入門と銘打っているように、ユング心理学を幅広かつお手軽に学び始める上で最良の入門書の一冊であろう。それなりに理解しやすい内容ではあるが、折に触れて読み返したいと思う。

 ユングの強調するのは、意識の一面性を嫌い、あくまで全体性へ向かって志向する人間の心の働きであり、これを個性化の過程として明らかにしつつ、心理療法場面における適用性へと高めていったということができる。(34頁)

 フロイトを組織開発の文脈の中で読み進めてきて理解しきれなかったことが、彼が部分を分析してからそれを再構成していくというプロセスであった。つまり、物事の全体をありのままにみるということを謳っているようには思えなかったことである。

 この点、ユングは全体性を重視し、心の働きとして全体をそのまま眺めるようにしている。その上で人間の発達のキーを個性化に置き、それを基にした心理療法アプローチを主張したという点は、組織開発の文脈にとってもわかりやすい。

 ユングは、古代のひとが外部の現象のみでなく、それが彼の心の内部に与えた動きをも述べようとしたのではないかと考える。むしろ、外に起こることと内部に生じる心の動きとは分離できぬものとして、その主客分離以前のものを、生き生きと記述しようとした試みとして、神話の言葉をよみとろうとするのである。(82頁)

 全体をそのまま受け止めた上で、それを物語をアナロジーとして意味合いを読み取ろうとするのがユング派の心理療法のアプローチだ。神話や昔話に違和感を持ってきたが、このように捉えると非常に興味深い。個人の夢分析から、そこに共通する集団の無意識へと至るアプローチも、組織開発の文脈から深掘りできそうに思える。

【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)

2019年5月18日土曜日

【第956回】『通過儀礼』(ファン・へネップ、綾部恒雄・綾部裕子訳、岩波書店、2012年)


 日常用語でも「通過儀礼」という言葉を私たちはよく使う。新しい組織に入り、仲間に受け入れられ、求められる行動を取れるようになるまでに必要な経験としてのタフアサインメントを「通過儀礼」と呼んだりするだろう。この「通過儀礼」について、ポイントは三つだと結論部分で著者は端的に示している。

 (1)儀礼は分離、過渡、統合という連続形を成す。
 (2)過渡期は普遍的なものである。
 (3)社会的な身分の変化は実質的通過に擬される。

 まず、(1)では三つの過程から成るというという連続形としての構成要素を明らかにしている。次に、(2)においては、間にある過渡期という段階に着目している。その上で最後に(3)では社会的な意味での変化が実質的もしくは物理的な何らかの通過に擬せられる。

【第786回】『断片的なものの社会学』(岸政彦、朝日出版社、2015年)
【第829回】『徳川時代の宗教』(R.N.ベラー、池田昭訳、岩波書店、1996年)

2019年5月12日日曜日

【第955回】『松坂世代』(矢崎良一、河出書房新社、2006年)


 高校時代に野球部に所属していたわけではない。しかし、松坂大輔と同じ学年である私も松坂世代の一人だと自負している。それほど、松坂大輔という平成の怪物の存在は大きく、その影響範囲は野球界にとどまらないようだ。

 松坂にしてみれば、とくに自分を追い込んでいるわけでも、人に隠れて努力をしているわけでもない。自分の体の状態をしっかりわかっていて、明日の試合で良いパフォーマンスをするためにはここでちょっと走っておいたほうがいいと思った。そう思ったら、みんなが楽しく遊んでいようと、お構いなしに走りに行く。松坂は高校生の段階で、すでにプロとしての行き方を実践していた。(278頁)

 常日頃は周りと合わせて協調的に振る舞うが、自分が信じた軸に抵触する場合は自分自身のやり方を貫く。これは当たり前といえば当たり前だが、高校生の頃からできるかと言われると難しい。そこまで早い段階で己を確立することが難解だからであろう。当たり前のように高校生の段階でそれができることが松坂大輔という人物の凄みなのだろう。

 松坂とは、直接触れ合った者を狂わせ、触れ合うことが出来なかった者にエネルギーを与えるという不思議な存在だった。(423頁)

 人は圧倒的な才能に魅せられるものだと思う。遠くにいればそこからポジティヴな影響を受ける一方、近すぎると天才と比較して自分自身の至らなさを痛感し、どこか諦観してしまう、ということなのかもしれない。

【第449回】『イチロー・インタヴューズ』(石田雄太、文藝春秋、2010年)
【第411回】『屈辱と歓喜と真実と』(石田雄太、ぴあ、2007年)

2019年5月11日土曜日

【第954回】『フロイト思想のキーワード』(小此木啓吾、講談社、2002年)


 著者が亡くなる直前まで勤務されていた大学・学部にいながら授業を取らなかったことを後悔していた。フロイトを学ぼうと思いいくつか読んでみたが、初学者にとって本書には参考になる部分が多かった。キーワードごとにまとめられていて、その一つひとつのまとまりは簡潔にして明瞭である。

 フロイトといえば精神分析をはじめた人物である。精神分析をする側に対する提言だけではなく、される側に対しても述べている。

 フロイトは、精神分析を受けるに値する患者は自権者でなければならないと主張した。親からも周囲のあらゆる人々からも自立し、治療者と二人だけの秘密を保つことができる自我の持ち主でなければならない。このような自我によってはじめて、自己の内面に目を向け、精神内界の真実に立ち向かうことができる、と。(55頁)

 精神分析を受ける側の自立性をフロイトは主張していたという。治療者が自立的であれば済むのではなく、治療者と患者との相互交渉が精神分析であるのだから、患者側にも自立性が求められるという指摘は鋭い。こうしたお互いの自立性がなければ、依存関係が生じてしまうからであろう。

 夢解釈の方法は、顕在夢を個々の要素に分析し、連想をとり、その連想を再構成することを通して、夢の潜在思考を解読するフロイト独自の手法である。しかしフロイト自身、そしてそれ以後の精神分析は、治療中に語られる夢は、患者が語る自由連想の一つの内容として位置づけ、個々の要素の連想を限りなく解読していくという手法を必ずしもとらないようになる。あくまで、夢も自由連想の内容の一つとして位置づける。
 これに対してユング派は、むしろ夢の全体的なイメージを重んじ、類型夢解釈の手法を発展させて、さらに拡充法などを用いて、童話や神話、文学作品を重ね合わせ、個々人の夢に表現される普遍的無意識のあらわれを読み取る方向に発展した。また、治療の中でも、夢分析を最も重要な治療の一つとして位置づけ、場合によっては、クライエントが語る夢の分析に終始する治療のやり方をとることもある。(149頁)

 フロイトとユングの両者における夢解釈の方法の差異である。見事に対照をなしている。フロイトが要素ごとに分析して再構成するのに対して、ユングはゲシュタルト的に全体像をそのまま読み取ろうとする。

 どちらが優れているという話ではないのだろう。それぞれの違いを意識しながら、フロイトおよびユングを学んでいきたいものである。

 フロイトは、みずから不幸、災厄を求めるかのように行動する人々に注目し、その心の層に、本人も気づいていない無意識的罪悪感に由来する自己処罰心理が潜む事実を明らかにし、この心性を道徳的マゾヒズムと呼んだ。(281~282頁)

 道徳的マゾヒズムというワードは恥ずかしながら本書を始めて知った。フロイトが約百年ほど前に提起したこの概念が、現代のSNS文化でよく見かける現象の背景にあるように思えることに驚きを禁じえない。

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)
【第932回】『新版 精神分析入門(下)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)

2019年5月5日日曜日

【第953回】『フロイトとユング』(小此木啓吾・河合隼雄、講談社、2013年)


 日本を代表するフロイト心理学とユング心理学の碩学二人による贅沢な対談。ど素人としては、フロイトとユングとの関係を反映して論敵のような関係なのかと思っていたが、お互いのリスペクトが見られる噛み合った対談となっている。

 治療者への転移と、そこで回想されてくる患者のフロイト的な発達の中に出てくるものが、うまく一致するように治療が進んでいくことが、治療技術としては、一番重要な問題だと思います。そのあたりがフロイトとユングの治療のプロセスとか技法の違いの一つになるんでしょうね。(115頁)

 小此木によるフロイトとユングの違いに関する指摘。フロイトは人間の発達に着目し、それが発達心理学へとつながる。続けて小此木は次のように指摘する。

 フロイディアンの図式で現在、一番一般化しているのは、エリクソンの八つの年代論、人生の周期ですね。(149頁)

 E・H・エリクソンはフロイトの娘であるアンナ・フロイトの弟子であり、ライフサイクル理論へと受け継がれた。こうした学問の系譜というものも調べてみると面白いものである。

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)
【第932回】『新版 精神分析入門(下)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)

2019年5月4日土曜日

【第952回】『初学者のための現象学』(ダン・ザハヴィ、中村拓也訳、晃洋書房、2015年)


 フッサールを嚆矢とする現象学について初学者のために書かれた本書。「初学者のための」という言葉に惹かれて読み始めたもののなかなかにして難しい。フッサールの現象学について学びを深めることが目的だったので全体を理解することは断念し、フッサールの部分のみに集中。

 現象学は、対象のさまざまな現出の仕方の哲学的分析として把握することができ、それに関連して、対象にあるがままに自己を示すことを可能にする理解構造の反省的研究として把握することができる。(4頁)

 ある対象をそのままのものとして示すことができることが現象学という学問の射程であるとしている。

 エポケーは素朴な形而上学的態度の中止を表す名称であり、したがって哲学への入り口とみなすことができるが(中略)、その一方で還元は主観性と世界の連関の主題化を表す名称である(中略)。したがって、エポケーも還元も、われわれを自然的独断論から解放し、われわれの固有の構成的(認知的かつ意味付与的)関与をわれわれに意識させる超越論的反省の契機とみなすことができる。(14~15頁)

 カッコに括ることも、自身の主観を外界に位置付けることも、独断から離れて行うことをフッサールは主張したということであろう。科学による解釈を宗教のように金科玉条として扱うことは独断論であり、そうした科学偏重主義への警鐘を鳴らしていると解釈できるのではないだろうか。

 現象学の功績は、人間を科学的に記述する試みにあるのではなく、むしろ科学性それ自体を、科学的合理性や認識する主観の志向性の形式の詳細な分析によって理解できるようにすることにある。したがって、本質的課題は、科学を営むときに、われわれがとる理論的態度は、われわれの世界内存在からどのように生起するのか、どのように理論的態度は世界内存在に影響し、世界内存在を変更するのかという問いの究明なのである。(29頁)

【第950回】『新装版 フッサールの現象学』(ダン・ザハヴィ、工藤和男・中村拓也訳、晃洋書房、2017年)
【第951回】『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、清水一浩訳、講談社、2018年)
【第933回】『超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』』(竹田青嗣、講談社、2012年)