2013年7月20日土曜日

【第178回】『構造と力』(浅田彰、勁草書房、1983年)

 前近代社会に対する近代社会という対比構造において、著者は、前者をスタティックな社会と呼び、後者をダイナミックな社会としている。

 このような類型で捉えれば、前者は、スタティックな差異化に基づいて社会における価値形態が規定されることになる。こうした価値形態は、宗教や土着の信仰といった長い年月の中で積み上げられてきた固定的な規範に基づくものである。むろん宗教や信仰といったものも変容をすることはあるが、その変容のスパンは数十年や数百年単位のものである。したがって、スタティックな差異化に基づく社会における身分は生まれる前から規定されており、その状態が中長期にわたって継続することとなる。ために、一個人の視点に立てば、自身の社会的身分を変えようと努力するのではなく、与えられた身分の中で日々精進する営為が合理的な態度となる。

 これに対して、後者においては差異化じたいがダイナミックに変容することが社会の特徴を表している。「神は死んだ」と宣言したニーチェの言葉を出すまでもなく、後者を規定するスタティックな価値観は存在しないか、その存在の強さが前者に比べて著しく減衰している。そのため、個人の視点に立てば、自身を社会的なスタティックな規範に基づいて規定することはできない。このように考えれば、あらゆる個人は、社会における多様な複数の他者との差異化によって自身を規定することとなる。他方で、差異化の形態じたいも時代の変遷と共に刻々と変化することを考え合わせれば、社会的身分の流動性が導かれることになる。社会における差異化の規範がダイナミックに変容する中で、個人の社会における有り様もまたダイナミックに変容することになる。

 こうしたダイナミックな差異化への絶え間ざる適応の帰結として、精神的・肉体的に疲弊をきたす事態が生じることは想像し易いだろう。価値相対的な状況への対応策として、前近代社会における絶対的価値形態を擬製するかたちで、学歴信仰や「宗教」的カルトといった表面をなぞっただけの似非が生み出される。しかし、こうした擬製的な信仰や宗教が、近代社会におけるダイナミックな差異化の波に晒されない特別な存在になりえるわけではない。したがって、そうした存在の浮沈のスピードは非常に早く、擬製的信仰や宗教の信者は、一時の擬製的平穏を得られるだけにすぎない。


 このような類型で論じると、近代社会とは私たちに絶望をもたらすだけのように思えてしまうかもしれないが、そのようなことはない。著者は、学生に対するメッセージとして希望を記している。「自己の狭隘な一貫性などにこだわっていないで、あらゆる方向に自己を開き炸裂させること」(20頁)という教養のジャングルにおいて知を渉猟せよ、という著者のメッセージをよく噛み締めるべきであろう。このメッセージは、なにも学生に限ったものでないことは付言するまでもないだろう。教養のジャングルは、学校だけに拡がっているのではなく、私企業や公的機関で働くいわゆる「社会人」にとっても同様に拡がっているからである。


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