2013年7月28日日曜日

【第183回】『巨いなる企て【愛蔵版】』(堺屋太一、毎日新聞社、1997年)

 豊臣秀吉の死後から関ヶ原に至るまでの時代の大きな流れについて、石田三成と徳川家康とを対比しながら描かれた歴史小説である。家康の有する石高と比べて十数分の一にすぎない領土しか持たない三成が、いかにして天下分け目の互角の決戦へと持っていったのか。著者は、その過程を、現代の企業におけるプロジェクト・メーキングの萌芽であったと喝破する。

 当初、三成は、家康との対立軸として前田利家を中心にした家康以外の四大老および奉行の連携を企てた。その試みは成功しかかったのであるが、利家の急逝という想定外の事態に伴って中心軸を失うことで、大幅な修正が求められることとなった。そこから、家康陣営との危険な綱引きと紆余曲折を繰り返しながら、関ヶ原の合戦という一大プロジェクトへと漕ぎ着けていったのである。

 プロジェクトを企てる際には目的が必要だ。三成にとってのこのプロジェクトの目的とは、家康の思い描く農民的な封建社会の建設を防止することだったと著者はしている。家康の目指す国家観に対する違和感、倫理観の差により、劣勢の中でプロジェクト創造を行おうとしたのである。

 では、どのようにプロジェクト・メーキングを行ったのか。日本型プロジェクト・メーキングの基本を為す三要件として「①大義名分の確立、②有力かつ熱心なスポンサーの確保、③象徴的な大物首脳の推戴」(528頁)を著者は挙げる。

 第一の大義名分の確立について。三成は、秀吉が残した行政システムの中心を為す奉行全員の連署により家康の所行を告発することで、家康と闘う正当性を明らかにした。秀吉の死後に行った家康の強引な法度破りは数回に及んだため、それを、適切なシステムに則って告発しようとしたのである。家康と目指す国家観の異なる三成が、秀吉の残した統治のしくみをもとにして、つまり秀吉の残した国家観によって家康を静止しようとしたのである。

 第二に、有力かつ熱心なスポンサーの確保である。三成は、大名との連携よりも、大名の部下に当たる家老といういわばミドルマネジャーを巻き込む手法を重視した。これは積極的な意味合いもあろうが、たぶんに消極的な理由もある。なぜならば、三成の石高は二〇万石を下回るものであり、多くの大名が自身の石高よりも上、すなわち格が上の大名だったからであり、そうした大名の場合にはコンタクトパーソンを家老級に定めたのである。その顕著な例が、上杉景勝の家老である直江兼続との連携である。

 第三の、象徴的な大物首脳の推戴については、三成は成功しきれなかった。これがプロジェクトの遂行段階、すなわち関ヶ原の合戦における失敗、つまりは敗戦と自身の滅亡に繋がってしまった点である。ここにおける大物首脳は毛利が該当する。領国から政治の中心地である京都・大阪までの距離の問題はあれども、西国大名の中心である毛利家の意向が三成と家康のパワーバランスに影響を与える存在であった。傍観気味の毛利に対して、毛利家の外向顧問とも言える安国寺恵瓊を味方につけるという第二の点とも関連するポイントで成功を収めつつも、合戦中に毛利側の小早川秀秋の裏切りにより敗戦を喫したのである。

 史実をもとにしながら、大胆に現代の企業へのアナロジーを展開する本書は、歴史書でもあると同時にビジネス書である。温故知新という言葉がふさわしい、含蓄に富んだ書籍である。


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