インド滞在時における社会学者の日記は、インドそれ自体を描くものではなく「インドを通して見えてきた何か」(389頁)を描写したものだった。何かを題材にしてものを書くという行為は、何かを通じて自分の問題意識を探り出す作業に繋がるのであろう。著者の場合、初めての経験を日記という形式で出力することは、ナショナリズムという彼が探求してきた研究テーマを考えさせる誘因になったようである。
ナショナリズムに関する示唆に富んだ指摘は本書の随所に見られる。中でもとりわけ感銘を受けた点を以下に挙げていく。
第一に、登録がアイデンティティを創るという問題について。歴史社会学の研究では、国家が国民に登録させる項目が、アイデンティティ形成を促すとされている。たとえば、身長や体重を記載されれば誰もがスタイルを意識し、それによって他者や自分を規定するようになる。腹囲を測定され、メタボという概念が形成されれば、太り過ぎや不健康といったことが意識されるようになる。このように登録事項がアイデンティティを創る現象は、インド人とパキスタン人とが外見上まったく区別がつかなかったという著者の経験から想起されたものである。元々、外見上でほとんど違いがない両者の間に、インド人とパキスタン人という明確な区別を創り出す。その結果として、外形上の区別が意識上の違いとしてのアイデンティティを生みだし、印パの対立を生んでしまっているのである。
第二に、「伝統」の創造について。近代化は、それ以前にあった特定の社会層における風習や、ある地位における特徴的な物産を「伝統」とすることで、同胞意識を涵養する。日本で言えば、前者は武士階級の一部の風習にすぎなかった切腹が(国民)小説で美徳として描かれることで「伝統」になり、太平洋戦争下では通常は市井で暮らす普通の「国民」が切腹を行った。また、国家の中における地域差を明確にするために、各地域で「伝統」工芸が誕生した。インドにおいては、イギリスの統治政策がカースト制度を類型化する過程で厳格に文言化され、それ自体が「伝統」になった。こうした「伝統」の創造には、マスメディアが寄与する面も大きい。以前の映像を可視化し、遠く離れた地域の文化を国民国家の内側の同胞が分け隔てなく共有することで、「伝統」が創造・強化される。
第三に、原理主義やナショナリズムの発生について。近代化はそれ以前にあった宗教的な絶対的価値観の相対化を生み出す。それは近代化の結果として生み出される国民にとって、頼るべき価値観がなくなることを意味する。頼るべき絶対的な価値観の欠落は、どのように行動すれば他者から肯定的に評価されるかという評価軸が多様かつ可変的になるということを意味する。偉大なガンディーを熱く語っていれば理想的であると言われていた時代が去った後で、何によって評価されるのかが分からない状態が近代化を進行させているインドの現状である。頼るべき価値観の空隙をぬって、原理主義やナショナリズムといった狭い集団の中で評価を得られるものが存在感を増す余地が生まれるのである。
第四に、ナショナリズムの帰結について。インドを訪れて数日後に体調を崩した著者は、無性に日本食が恋しくなって食べてみる。食べる前にはとてもおいしいように思えていた日本食を、実際に食べてみてそれほどおいしくないことに気づく。この事実から、「現状が悪いときにはシンボリックなもの(「日本」)に希望を託すが、それそのものを入手すると期待が裏切られたりする」(34頁)と一般化するところがさすがである。ナショナリズムを希求する状況と、その帰結に関する、非常に含蓄の富んだ警句である。
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