2013年9月29日日曜日

【第206回】『木橋』(永山則夫、立風書房、1984年)

 本書の著者は『まなざしの地獄』(見田宗介、河出書房新社、2008年)で見田宗介が取り上げたN・N本人である。自身を認めてくれるポジティヴなまなざしへの渇望と自身の生い立ちへのネガティヴなまなざしへのコンプレクスから、いわば社会学的な連続殺人へと至った著者自身の「まなざし」に基づく著述が本書である。

 著者が「まなざし」の地獄として描く世界はきわめて痛ましい。周囲から差別を受ける日雇い労働者に対して自分自身の生い立ちの源泉である父、そして自分自身へと結びつける。

 N少年は、この時、大笑いする連中に、殺意を感じた。若い警官やアル中の泳ぎ狂う男の仲間と思える河岸にいる日雇いたちは、みな真剣な顔々に見え、誰一人笑っていない。なぜ笑うのか。N少年はフツフツと腹が立ってきた。その頃気持が荒れて仕方がなかったが、その火にさらに油をかける気分にさせた。 ーーこの野郎!! と、叫びたい思いが胸を駆けめぐった。 N少年は、自分のオヤジが、ああして殺されていったのだと思った。無性に腹が立った。誰ともなしに無性に怒りつけたい思いに駆られた。 あのドブ河で泥まみれになりながら泳いでいるアル中の男が、オヤジのように思えた。また近い将来の自分自身の姿でもあると考えられた。(102~103頁)

 本を読むこと、とりわけ小説を読むことの意義について「自身の世界観の狭さに気づき、自身の知らない境遇の人への感受性を育むこと」と以前のエントリーで書いた(『破壊』(島崎藤村、青空文庫))。著者の凄絶な境遇を追体験できたというのは烏滸がましいが、彼の「まなざし」から描かれた世界を垣間みることに意義があることには相違ないだろう。

2013年9月28日土曜日

【第205回】『森の生活ーウォールデンー』(H・D・ソロー、佐渡谷重信訳、講談社、1991年)

 ペリーが浦賀に訪れたのと同じ時分に、ハーヴァードを出て20代後半で故郷コンコードのウォールデン池の近くでの自然の生活を始めたアメリカ人がいた。若くして思想家として活動していた著者が、森の中で生活を送りながら思索を探求しようとする姿勢は心地よく、また羨望に近い感情をもおぼえる。

 なぜ著者は森へと向ったのか。

 私が森へ赴いたのは、人生の重要な諸事実に臨むことで、慎重に生きたいと望んだからである。さらに、人生が教示するものを学び取ることができないものか、私が死を目前にした時、私が本当の人生を生きたということを発見したいと望んだからである。人生でないものを生きたくはない。生きるということはそれほど大切なのであるから、やむにやまれぬ事情がないかぎり、諦めることはしたくなかった。(139頁)

 自然の中で身の丈にあった生活を送りながら、時間に束縛されずに自分の頭で深く考えること。生活することと思想を探求することとは近いのかもしれない。しかし、だからといって私たちが森へ行かなければ探求できないということでもないだろう。「慎重に生き」られる場所は、各人によって異なるからである。

 思想を探求する上では、自身で考えるとともに、外からのインプットも触媒として必要になる。

 古典の研究が古いからといって放棄するのは、自然の研究を放棄することと同じである。きちんと読書すること、つまり、本物の書物を本物の精神で読むことは高尚な鍛錬なのである。それは今日の習慣が尊重しているどんな修練よりも、読者にとって努力を必要とする高尚な修練なのである。(155頁)

 ただ読み流すのではなく、書物と向き合うこと。そしてその書物とは、本物の書物であることが重要であり、古典と格闘して味得するということまでをも意味しているのではないだろうか。

 こうした知的格闘を経て、著者は自己認識を以下のように改める。

 私は、人間が二重人格を有していることを自覚している。それ故に、自分自身、他者と同様に距離を置いて超然としていられるのだ。しかし、私がどんなに情熱的な経験をしたとしても、私の感情の一部分と、そうでない部分が混然とし、後者が私自身を批判していることに気づいている。つまり、私の心の中には経験していない一人の傍観者が別に存在していることになる。(204頁)

 二重人格という言葉を見ると病的ななにかを想起せざるを得ないが、客観的自己把握やメタ認知という風に置き換えるとどうだろうか。もしくは平野啓一郎氏が述べるような「分人」(『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年))という社会学的な概念に置き換えてみても分かりやすい。このように考えれば、著者が描く人間像は、傍から見ればいつも動じないで芯を持った理想的な人物のようにも思えよう。

 こうした深い探求を経ながら、著者は約五年で森の生活をやめて、そこを去ることを選択する。その理由もまた、興味深い。

 私は森に入った時と同じ理由でそこを去ったのである。どうやら、私には生きるためには、もっと別な生活をしなければいけないように思えた。だから、森の生活のためにのみ時間を割くことは出来なかった。注目すべきことは、どのようにして人は知らず識らずのうちに、あるきまった生活にはまり込んで、自分自身の慣れ親しんできたやり方を踏襲するか、ということである。(463~464頁)

 環境要因の中の変化をしない部分に私たちは着目し、そこに合わせて自分自身の言動をルーティン化する傾向を著者はしてきするのである。したがって、いくら内的な世界の豊饒さを重視したところで、外的な世界を意識的に変えていく営為をほどこさないかぎり、私たちは日常を飽くことになってしまうのだろう。

 自分の眼を正しく内に向けよ、そうすれば分かるだろう 自分の心の中に無数の領域が 未発見のままであることが。その場所に旅をせよ、そして 自分の心の宇宙誌の専門家となれ。(460頁)

 なにか心に訴えかけるような素晴らしい詩だと思える。ジョブズのスタンフォード大での講演をリマインドさせる読者も多いだろう。この詩をよく噛み締めながら、自分自身の生き方について見つめ直してみることもまた、趣き深い。

2013年9月23日月曜日

【第204回】『陰翳礼讃 改版』(谷崎潤一郎、中央公論新社、1995年)

 道具が文明を創り、文明が道具を創る。文明と道具との相互作用の連環から外れたものへの違和感は、感覚が優れた者こそが感ぜられるものなのだろう。
 
 実用方面の発明が独創的の方向を辿っていたとしたならば、衣食住の様式は勿論のこと、引いてはわれらの政治や、宗教や、藝術や、実業等の形態にもそれが廣汎な影響を及ぼさない筈はなく、東洋は東洋で別箇の乾坤を打開したであろうことは、容易に推測し得られるのである。(16頁)

 純文学の書き手というものは美に対する意識が鋭敏である。著者は続けて、西洋における美意識と対比しながら、日本における美意識について以下のように述べる。

 支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつるつる撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。して見れば、「風流は寒きもん」であると同時に、「むさきものなり」と云う警句も成り立つ。とにかくわれわれの喜ぶ「雅致」と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われわれは人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを想い出させるような色あいや光沢を愛し、そう云う建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が和やいで来、神経が安まる。(22~23頁)

 続けて、日本人の生活に使われてきた調度品における美について著者はさらに説明を加える。

 その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。(24頁)

 さらには生活空間において、美を構成する光をどのように表現するか。ここにおいても、西洋と比べて日本における光の居住空間への活用は独特だ。

 われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。(32頁)

 こうした日本と西洋の美意識の違いは、両者の人生観への違いに繋がる。

 案ずるにわれわれ東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。然るに進取的な西洋人は、常により良き状態を願って已まない。(50頁)

 進歩史観を前提とする西洋近代に対して、春夏秋冬と循環する四季を経験する日本社会。寒くて暗い冬や、鬱々とした梅雨に対しても独特の美を見出す日本人の精神性が、本書の書名に込めた著者の考えなのではないだろうか。

2013年9月22日日曜日

【第203回】『美しい日本の私 その序説』(川端康成、講談社、1969年)

 本書は、ノーベル文学賞を受けて著者が行った基調講演をもとにしたものである。日本人が日本という風土において見出す自然の美しさについて、自身が揮毫する際に用いる道元や明恵の作品等をもとに解説を試みている。

 雲を出でて我にともなふ冬の月  風や身にしむ雪や冷めたき

 明恵のこの歌を著者は揮毫する際に書くことがあるという。その理由について、著者は以下のように述べる。

 私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思ひやりの歌とも受け取れるからであります。雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこはいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷めたくないか。私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげてゐます。(10頁)

 ここには自然をやさしい存在とみなし、自然と人間とを共生関係として把握している様が見て取れる。自然という存在を人間が克服すべき存在として人間と切り分けて描かれる西洋近代と対比すると、自然と人間との共生という感覚から優しさが出てくるのであろう。

 こうした自然観は、自然を人為から隔絶した大きな存在として見出す良寛の辞世にも現れている、と著者はいう。

 形見とて何か残さん春は花  山ほととぎす秋はもみぢ葉

 現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれてゐる良寛、その人の辞世が、自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思はぬが、自分の死後も自然はなほ美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだらう、といふ歌であったのです。(14~15頁)

 偉大で美しい自然に対して人間はなにも付け足す必要性はないし、むしろ何かを足すべきではない。自分自身という小さな存在の死と対比することで、完成した大きな自然の美しさを表現する良寛の歌に日本人の自然に対する美意識が凝縮されている。

 このような自然観は、外的な自然と内なる自然という二つともに通ずるところがあるのだろう。臨済の言葉と言われる以下の禅語を用いて著者は説明している。

 逢仏殺仏 逢祖殺祖

 禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。そして、論理よりも直観です。他からの教へよりも、内に目ざめるさとりです。真理は、「不立文字」であり「言外」にあります。(23頁)


 自ずから然りと述べる「老子」にもあるように、自身の内側にあるものから悟りを自然に得ることこそが、最上の学びであり気づきであるのだろう。著者が述べるように、他者との対話や学問を探究することも重要であるが、それは良質な気づきの手段に過ぎないということを私たちは自覚するべきであろう。自身の内側と外側にある自然に対して開いたタイトを取ることこそが、<日本人>の美意識を用いた自然な態度ということなのではないだろうか。

『臨済録』(入矢義高訳注、岩波文庫、1989年)
『老子』(金谷治、講談社、1997年)
『タオ 老子』(加島祥造、筑摩書房、2006年)
『学問のすすめ』(福澤諭吉)

2013年9月21日土曜日

【第202回】『孔子』(和辻哲郎、岩波書店、1998年)

 ソクラテス、イエス、釈迦、孔子をして四聖と呼ばれる。人類にとって偉大なる四人の教師とも言える存在であろう。人々にとって偉大な教えを伝える人物であれば、その言行録や伝記が多いのが普通であろう。実際、ソクラテス、イエス、釈迦について、そうした書物は多い。それに対して、孔子は『論語』以外に信憑性の高い書物はないというのが一つの特徴ともなっている。著者は、そうした結論づけのあとで、『論語』を考察している。

 『論語』は部分によって書かれている内容が異なる。著者はその分類を以下のようにまとめる。学而編の最初の部分は、孔子を中心とする学園の根本精神を説くもの、学ぶべき道と道を学ぶ際の心がけといった精神論である。

 著者は『論語』の最初の一節をもとにしながら、根本精神を構成する三つの要素について解説を加える。

 子の曰わく、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。(學而第一)

 ここには学問の喜び、学問によって結び付く友愛的共同態の喜び、共同態において得られる成果が人格を高めるという自己目的的なものであるという学問生活の目標、が挙げられている。地位や名誉といった他者の観点から見た他律的な学びではなく、あくまで自律的な学びをもとにして、学び合う者同士が切磋琢磨し、たのしみながら学ぶという精神が述べられているのである。


 最後に、『論語』に書かれていないものに留意する必要があろう。それは死についてである。四聖の他の三人の教えを含め、世界における名だたる宗教では死を扱うのに対して、孔子が死を扱わないことには意味がある。死の問題を取り扱うことは、魂の問題を取り扱うことを含意する。したがって、孔子はあえて魂の問題を教えの中に含めなかったということになる。それはすなわち、現世において生きるというプラクティカルな側面を重視した孔子の考え方が垣間見える。ここにおいても、自己目的的な生き方が徹底されているのである。

2013年9月16日月曜日

【第201回】『不可能性の時代』(大澤真幸、岩波書店、2008年)

 著者は、日本の戦後史を、理想の時代、虚構の時代、そして不可能性の時代へと変遷するものとして描き出す。理想の時代とは、戦後の復興から高度経済成長期へと至る時代を指し、三種の神器に代表されるような、人々が容易に想起できる理想の生活を目指す時代である。その後、そうした理想が多様化し、現実への幻滅から虚構に対して価値を見出す虚構の時代へと変わる。

 理想の時代においても、虚構の時代においても、そこには目に見える対象物が存在した。しかし、現代の日本社会にはそうした対象物が存在しないことが社会学的な特徴であると著者は喝破する。こうした状況を、具体的な事物を認識したり、具体的に実践を行ったりすることから逃れて行く不可能性が現代社会を織り成す時代性であるとする。この逃避行動の両極が、一方は過度に具体的な事物を認識しようとする原理主義であり、もう一方は過度に多様性を重んじるリベラルな多文化主義に対応すると警鐘を鳴らす。

 現実と虚構からの逃避という現象を、著者はフーコーのパノプティコンを引きながら解説する。パノプティコンとは、中央に監視者がいて、その周辺に監視される囚人がいる監獄であり、監視者から囚人は見えるが、囚人からは監視者がどこを向いているかが分からない。いつ見られているかが分からない状況であるために、囚人はいつでも規律に沿った行動を取らなければならない。パノプティコンという監視装置の結果として、囚人は従順な主体として規律化される。このパノプティコンにおける監視者を国家に、囚人を国民として考えれば、近代的な国民国家の装置と同じであることは自明であろう。

 では、近代の産物である国民国家におけるパノプティコンという装置は、現代の日本社会ではどのように機能しているのか。著者は、<他者>から監視されることで主体性を築くこと、さらに言えば、<他者>から監視されないと主体性を築けないという恐れが行動原理となっているとする。mixiからTwitterを経て、相互承認によりフィードバックを与え合うFacebookの流行は、その最たる例である。

 ここにおける<他者>とは具体的な人物ではないことに留意をする必要があるだろう。私たちの多くが気にするのは、特定の人物からのフィードバックではなく、「いいね!」を押してくれる<他者>の数であり、「ともだち」という名の<他者>の数である。こうした<他者>性を為す関係性は、<他者>を求めながらも、同時に、具体的な<他者>を恐れているとも考えられる。こうした<他者>こそが、不可能性の時代の本質なのである。

 社会学とは仮説としての枠組みを提示する学問である。したがって、私たちは著者の考え方に拘泥する必要性はないが、他方で、仮説をもとに社会を眺める営為は大事であろう。

『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)
『まなざしの地獄』(見田宗介、河出書房新社、2008年)

2013年9月15日日曜日

【第200回】『人間の建設』(小林秀雄・岡潔、新潮社、2010年)

 数学者と哲学者、二人の異分野における知の巨人の対談である。珠玉の言葉の背景に見え隠れするものは、知に対する熱情、人間に対する愛情である。

 【岡】人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。(10頁)

 難しいものを理解しようとする行為はチャレンジングであり、ために、学問とは本来は面白いものである。何の為に学ぶのか、と問う人がいるが、面白いからとしか答えようがないものだ。学問の本質とは外発的・結果志向的なものではなく、内発的・過程志向的なものだからである。ただし私自身は岡の見解とは少しく異なり、何らかの領域に興味を持つきっかけが、試験という外発的な誘因であることに反対する気持ちはない。しかし、いつまでも他者が設けた枠組みの中でしか思考・行動できないのであれば、それは他者や社会にとって建設的ななにかを提供することは難しいだろう。なぜなら試験で求められる静的な知識では、動的に変化する環境に適応することは難解だからである。

 ではなぜ学問に興味を持てない人が多いのか。無明という仏教の概念を用いて、岡は説明を試みている。

 【岡】人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。(中略) 人は無明を押えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。(14~15頁)

 おそらく岡は、常に無明を押さえるということに焦点を置いてこの発言をしたのではないだろう。およそ普通の人間が、一日中無明を押さえるということはなかなか想像できない。しかし、自分が注力する学問においては、外発的な誘因ではなく、内発的な動因に基づいて、無明の妨害を排除することが重要だろう。常にはできないからといって諦める必要はなく、ある時間・条件においてできることであれば、それを試みてみることだ。

 学問をたのしむことはあくまで個人的な作用である。個人における行為に留まるのであれば、究極的には、無明を押さえられようが、押さえられなかろうが、どちらでも構わないだろう。しかし、無明のなせる業は、社会に対しても悪影響を及ぼすと岡は指摘する。

 【岡】世界の知力が低下すると暗黒時代になる。暗黒時代になると、物のほんとうのよさがわからなくなる。真善美を問題にしようとしてもできないから、すぐ実社会と結びつけて考える。それしかできないから、それをするようになる。それが功利主義だと思います。(33頁)

 知的探求がない人間は、即物的なものに価値を見出し、そうしたものを得ようとすることを目指す。そうした社会は功利主義的であると岡は述べる。TOEICの点数の高さを競い合い、年収の多寡を気にし、他人からの承認をかたちにすることを求める社会。そこには、海外の文献を渉猟したり異文化の方々との触れ合いをたのしみ、職務を少しずつ工夫して手応えを得て行くたのしみ、多様な他者との関わりにより多様な自己を見出すたのしさを疎外する社会である。学問を重視しない社会の是非は、問うまでもないだろう。

 さらに、学問という深い本質的な学びのない、浅薄で表面的な情報による処理じたいが積極的な害悪を為すと岡は指摘する。

 【岡】人の知情意し行為することから、そういう本能的な生活感情を抜くというのが科学的なことなのですが、科学することを知らないものに科学の知識を教えると、ひどいことになるのですね。主張のない科学に勝手な主張を入れる。ほんとうにそうです。人には野蛮な一面がまじっているのです。(67頁)

 意図的に情報を操作しようとするのではなく、無意識に情報を曲解して現実に適用することの方が恐ろしい。悪であるという自覚があれば、人間である以上、躊躇する精神作用が働くものであるが、悪であることに無自覚であれば、その行為は際限なく続く。権威者のお墨付きが得られているという保証があると思えるからこそ、人は、目の前の被験者の苦しんでいる現実を無視して、電気ショックを被験者に与え続ける。数十年前の心理学の有名な実験から、残念ながらこの現実は明らかなのである。学問の本質への無理解は、害悪の萌芽を意味するとも言えよう。

 無明という個人のなす作用を否定することで、個人ではなく全体への意識を重視することに繋がる。

 【岡】一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。 【小林】なるほど。おもしろいことだな。 【岡】私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。だから一のなかでやっているのかと言われる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。(104~105頁)

 ここで岡が述べる全体性には二つの含意があるのだろう。すなわち、個人の中における全体性と、全体性の中における個人である。前者は一人の個人の中に多様な可能性や関係性が存在し、それぞれの差異が一人のゆたかな人格というかたちで統合されている様を表している。後者は、多様な個々人の集まりが集団としての強さを発揮する一方で、一つの組織としての特徴を生み出すということを意味しているのであろう。こうした状況を「一」という数字で表すところに、岡の数学者としての深みが現れている。

 「一」の理想形態とはなにか。岡はそれを「のどか」と形容する。

 【岡】のどかというものは、これが平和の内容だろうと思いますが、自他の別なく、時間の観念がない状態でしょう。それは何かというと、情緒なのです。だから時間、空間が最初にあるというキリスト教などの説明の仕方ではわかりませんが、情緒が最初に育つのです。自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんです。矛盾でなく、初めにちゃんとあるのです。そういうのを情緒と言っている。私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです。(109頁)

 全体性とは自他の区別がないことであると岡はここで断言する。人は、ともすると自他を切り分け、自己中心的に考えてしまう。これが先述した無明であり、深い学びをたのしめなくなる原因である。

 こうした情緒を育むためには、理想状態を言葉にする作用が鍵となる。

 【小林】私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ヒョッと言葉が出て来て、その言葉が子供を生むんです。そうすると文章になっていく。文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね。(123頁)

 理想状態とは心の中に浮かぶ方向性である。方向性がほのかに見えればそれを自ずから把捉することを意味しない。方向性を具体的に顕在化する必要があるのである。そのために、言葉を用いて、文章を紡いでいく。文章を作り上げて行く過程で、翻って自分の心の中に思い描いていた心象風景をはじめて見ることができるのである。

 こうしたアウトプットをするためには何が必要か。小林は、良質なインプットがその前提にあることを述べる。

 【小林】古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。(145~146頁)

 ここでは時間軸における素読の重要性を説いているが、同時に空間軸における素読の重要性も挙げられるだろう。すなわち、日本語訳された書籍を読むのではなく、もとの英語で書かれた原著を読むということである。言語とは思考方法や感情表現が体現化されたものであり、違う言語に訳された時点で内容のいくばくかは零れ落ちるものだ。空間的・時間的なオリジナルである書籍に当たるか、そうした限界を踏まえた上で解説本・翻訳本に当たることが重要である。


2013年9月14日土曜日

【第199回】『村山さん、宇宙はどこまでわかったんですか?』(村山斉、朝日新聞出版、2013年)

 普段の読書体験において接することが少ない領域の書物を読むのは新鮮だ。エッセンシャルな学問領域ほど、他の領域に応用が利くものだ。このように信じているため、私は、意識的に、自然科学の書物を、完全には理解できないながらも紐解く機会を設けるようにしている。

 正直に白状すると、著者の書物を以前読んだ際に、よく分からずに挫折したことがある。ために、著者の書籍を目にすると身構えてしまい、手に取ることを躊躇することがあった。本書は、朝日新聞の科学記者であり編集委員を務めていらっしゃる高橋真理子さんとの対談形式である。ために、いつも以上に門外漢にも分かり易い表現がなされており、安心して読み進められた。

 まず興味深かったのは、不確定性関係について以下のように宇宙初期のインフレーションをもとにしながら分かり易いアナロジーを用いて説明されている点である。

 それ(塩川補足:インフレーション)が宇宙をビヤーッと引き延ばすわけなので、借りて返そうと思ったんだけど、「オオッ」と離れて行っちゃった。返せなくなっちゃった。そうすると借りたまま残っているわけですね。貸した方も返してもらおうと思うんだけど、オオッと行っちゃって、貸したままで終わっちゃう。こうして宇宙にでこぼこが残ったわけです。そのでこぼこが今の銀河の元になったというのが標準的な考え方です。不確定関係なんて全然私たちに関係ないと思って普通の人は聞いていると思うんですけど、このおかげであなたはここにいるんですよ。もし許されてなかったら、宇宙は本当にのっぺらぼうで、濃いところも薄いところもない。でもこの貸し借りのおかげでちょっと濃いところがあった。ちょっとというのは100メートルの海に1ミリのさざ波。10のマイナス5乗。そのちょっとのさざ波が周りのものを重力で集めて、成長して銀河になり星になり、人間が生まれた。(142頁)

 宇宙のインフレーションについては、高三の時に、東大の教養課程における英語の授業で使用されるテキスト「Universe of English」(※1998年当時のことなので今もテキストとして使われているかは分からない)中で学んだ。当然、文章は英語であったために理解がいささか足りない点もあったのであろうが、本書の解説で腑に落ちた部分がある。とりわけ、宇宙の膨張に伴い、アンバランスが発生するために銀河が生まれ、生命がその中で育まれたという点は目から鱗が落ちる思いであった。私たち人間が地球という惑星にいる不思議な経験すら感じられた。

 次に、数学という学問の可能性について。

 よく使うガリレオの言葉で言えば、「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」ということです。数学って自然科学ではない。足し算、引き算から始まって一つ一つ厳密にやり方を決めて矛盾がない体系をつくる、言ってみれば頭の中でそういう体系をつくるのが仕事で、自然とは無関係につくっているんですね。とても抽象的なものです。でも、なぜかそうやってつくった数字というのが、自然を理解するのにすごい役に立つ。それはすごく不思議なことです。人間の経験は、やっぱり周りのものだけに数えられて、それを説明する言葉を作り上げてきて、それを使って日常生活をしている。でも、今まで全然経験してないような世界に出会った瞬間に文字通り言葉を失ってしまう。それを話す為のボキャブラリーがなくて文法がない。そのときに使えるのが数学という言葉です。そして、一番不思議なことは、人間の感覚では理解できないとんでもない現象が見つかったときに、それを説明できる数学はその時点でできちゃっているということです。(144頁)

 一言で言えば、基礎的な学問を学ぶことの重要性が述べられている。基礎的な学問というものは、思考のOSのようなものなのであろう。そうであるからこそ、言葉になかなか還元しづらい主観的な印象や生活全般における経験を扱うことができるようになる。自然言語で説明しづらいものを、いわば人工的な客観的な言語である数学で、漠然とした現実を把捉できる、というものは興味深い。こうした現象の客観化によって、対人コミュニケーションが円滑になるという作用もあるだろう。したがって、数学とは、人と人との間のコミュニケーションにおける共通言語であるとも言えるのではないだろうか。

 最後に、学ぶことと謙虚であるということ。

 科学者を本当にやっていると、謙虚になると思います。むしろこんなにわかっていないのか、しょっちゅう降参したと言って暮しているわけですから。(151頁)

 含蓄に富んだ至言である。学べば学ぶほど、世界の複雑さや深みを理解できるということは、研究者や学習者であれば理解いただけることであろう。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の故事を引くまでもなく、自戒を込めて、常に意識したい言葉である。


2013年9月8日日曜日

【第198回】『組織論レビューⅠ組織とスタッフのダイナミズム』(組織学会編、白桃書房、2013年)

 論文執筆中には最も苦しい部分であるが、終わった後には最も充実感を得ている箇所。私にとってそれは先行研究レビューの部分であった。先行研究を行うことによって、ある分野における論文同士の論点を整理することができるとともに、自分自身が心の底から何を探求したいのかがくっきりとかたちを為す過程は爽快だ。インプットとアウトプットとが通底することをはじめて体感したのが先行研究レビューであった。

 本書は、組織学会が気鋭の若手の研究者を中心にして、五つのトピックスに関する先行研究レビューを集めた異色の労作である。研究活動を少しでも行った者にとっては、その汗と涙に共感せざるを得ない書籍である。どれも素晴らしい論考であるが、ここでは、二つのトピックスに絞って記していきたい。

 一つめはプロフェッショナルに関する先行研究である。

 著者はThompson(1965)を引きながら、組織におけるプロフェッショナルの役割は、既存の知識を組み合わせることで組織にとって価値のある新規のものを創り出すことにあるとする。自分自身の特異な知識により何かを生み出すという従来のプロフェッショナル像から、他者や組織の保有するナレッジをマネジメントすることで価値を生み出すという現代に活きるプロフェッショナル像への発想転換が行われたのである。

 さらに1980年代を過ぎてくると、特定の企業という枠ではなく特定の職務におけるプロフェッショナルへと研究の対象は移っていく。Abbott(1988)やSchon(1983)は、プロフェッショナルにおける知識の使用過程は職務の集団単位で差別化されている点を主張する。つまり、顕在化された行動における差別化ではなく、知識の運用という、ともすると潜在的なプロセスにおける差別化が、プロフェッショナルとしての優位性の源泉となっている。ビジネス書に載っている優秀なプロフェッショナルの過去の行動を今の時点で適用してみても、既に陳腐化しているためにうまくいかないものだ。AbbottやSchonの指摘は現代の仕事を取り巻く環境をも鋭く指摘している。

 二つめはアイデンティフィケーションに関する研究レビューである。

 まず、Ashforth et al.(2008)やPratt(1998)やvan Dick(2004)をもとに、組織コミットメントと組織アイデンティフィケーションという類似した概念の相違を指摘している。組織コミットメント論では「心理的に分離された存在(entity)である組織と個人の結びつき(binding)」を扱う。それに対して、組織アイデンティフィケーション論では「組織は個人の社会的アイデンティティの1つを構成するものとされ、組織との知覚された一体性(perceived oneness)」を扱っている。前者が個人と組織との関係性に焦点を当てているのに対して、後者では個人が組織との位置づけに関する自己意識に焦点を当てているのである。

 では今なぜ組織アイデンティフィケーションに焦点が当たるのか。それは組織アイデンティフィケーションを説明変数として置いた際に、結果変数として重要な対象が出てくるからである。すなわち、協同行動、組織市民行動、離職、創造的行動、内発的動機づけ、情報共有、組織への肯定的評価、組織の防衛、職務満足、業務調整などといったものが例示される(Ashforth et al., 2008)。企業の業績やパフォーマンスに影響を与えるこうした要因に影響があることが実証されている対象に対して、研究がなされることは当然であるとはいえ、重要な視点であろう。

【参照文献】
Abbott, A. (1988). The system of professions : An essay on the division of expert labor, Chicago: University of Chicago Press.
Ashforth, B. E., Harrison, S. H., & Corley, K. G. (2008). Identification in organizations: An examination of four fundamental questions. Journal of Management, 34(3), 325-374.
Pratt, M. G. (1998). To be or not to be: Central questions in organizational identification. In D. A. Whetten & P. C. Godfrey (Eds.), Identity in organizations: Building theory through conversations (pp. 171-207). Thousand Oaks, CA.: Sage.
Schon, D. A. (1983). The reflective practitioner: How professionals think in action. New York: Basic Books.
Thompson, V. A. (1965). Bureaucracy and innovation. Administrative Science Quarterly, 10, 1-20.
van Dick, R. (2004). My job is my castle: Identification in organizational contexts. International Review of Industrial and Organizational Psychology, 19, 171-203.

2013年9月7日土曜日

【第197回】Number836「イチロー 不滅の4000本。」(文藝春秋、2013年)

 イチローの語録には、それ自体が書籍になるほど、プロフェッショナルならではの含蓄に富んだものが多い。書籍になったものと比べても、日米通算4000本安打を記念した今回のNumberの特集号における小西慶三氏の記事にある言葉は、印象的だ。とりわけ、キャリアやライフにおいて参考となりそうな三つの言葉についてコメントを述べる。

 一つめは才能について。

 「学生時代、打つこと、守ること、走ることと考えること。その全部ができる人がプロ野球選手になると思っていた。今もそう思っているが(日米での)現実はそうでなかった。それ(今も変わらぬ自分のプレースタイル)が際だって見えることがちょっとおかしいな、と思いますね。だってそれは僕にとっては普通のことだから」(18頁)

 野球の世界で野手に求められる走・攻・守。この三つを高いレベルで強みとすることを当たり前のこととして、すなわち、幼い自分から認識して、癖にしていたというのだから驚嘆すべきだろう。実践を繰り返せば繰り返すほど、その分野における能力を深いレベルへと掘り下げていける。さらに、「打つこと、守ること、走ること」の後に「考えること」という言葉が続く。つまり、実践の最中に考えることを、プロ野球選手になるための四つ目の要件としている。がむしゃらに行動するだけでは、同じ失敗を繰り返す。考えるだけではいつまでも新たな一歩を踏み出せない。行動しながら考える。日々考えながら練習や試合で試し続けること。思考と行動の絶え間ない相互交渉こそがイチローの才能なのであろう。

 第二に継続することについて。

 「いろんなことが諦めきれない自分がいることを、諦める自分がずっとそこにいる。野球に関して妥協ができない」(19頁)

 この発言の前にイチローは「ちょっとややこしい言い方になりますが」と前置きをしたそうだ。誤解しかねない言葉であるため、じっくりと向き合う必要があるだろう。才能とは自然と自分の心が向かうもの、または他人よりも容易に行えてしまうものである。しかし、才能を継続して発揮し続けることは意味していない。つまり、高め続けることは、才能があろうがなかろうが、意志の問題である。イチローにとって、自分の課題を見つけ続けるということは、一つの課題を解決してもまた新しい課題が見つかるという現実を受け容れることになるのだろう。すなわち、何かに対して諦めないという感情を持つ自分の認識を諦めるということになる。イチローらしい、複雑な事象をシンプルに凝縮した言葉づかいである。

 第三に自己動機付けについて。

 「こういうときに誇れるのは(4000安打の)いい結果ではない。僕の数字で言えば8000回は(凡打の)悔しい思いをしてきたし、それと常に自分なりに向き合ってきた事実がある。誇れるとすればそこじゃないかなと思う」(21頁)

 良い結果を誇るのではなく、悪い結果を受け容れること。つまり、悪い結果ときちんと向き合い、その過程から自身の課題を見出し、課題を解決するための方向性を見出し、日々の行動の中で改善してきたことこそを、イチローは誇りにしている。この発言でイチローが例にしている三割三分三厘という打率は、一般的な野手の数字としては極めて高い数字だ。しかし、イチローは六割六分七厘の「凡打率」を見出す。失敗を引きずりすぎては悪影響を及ぼすし、だからといって失敗をないがしろにしては反省できない。失敗を客観的に振り返った上で、いかに主観的に成功イメージを抱くことができるか。そこには行動の訓練とともに、思考の訓練が必要であり、揺るぎない志をいかに持つか、ということが関わってくる。

【第196回】『永遠の0』(百田尚樹、太田出版、2006年)

 感動する、泣く、電車では読まない方が良い。そうした評判を事前に耳にして構えすぎていたからか、最後に至るまで残念ながら涙を流すことはなかった。酷薄な人間だと誤解されないように付言すると、私はわりと涙もろい方だ。読書で言えば、『白い巨塔』のラストを電車の中で読みながら、十数分ずっと泣いていたくらいだ。だからといって、本書の読み応えが減衰することはない。零戦の士官を務めて戦死した人物・宮部久蔵を取り巻く、戦争当時の彼の知り合いによる人物描写は一気に読ませる。戦争とは何か。家族とは何か。生と死とは何か。様々なテーマが凝縮された戦争小説である。

「すべては慣れだよ。あとは続ける根気だ。続けていくうちに力がついてくる」(172頁)

 激しい戦闘後にも関わらず厳しい肉体鍛錬を続ける宮部が後輩に語る言葉である。重力と逆らいながら零戦を自在に操る凄腕は才能が為せるものではなく、その背景には人知れない鍛錬がある。そして、その鍛錬の背景には、生きて家に帰り妻子と再び会うという目的がある。

 誰しもが死にたいとは思わないものだ。太平洋戦争時に動員された日本国民のほとんど全員が生きて帰るという目的を持っていただろう。しかし、それを表に出しづらい雰囲気や空気が支配していた。

 明け方近くに「志願します」という項目に丸印を書き入れました。多くの者が志願すると書くはずだという意識が書かせたように思います。私一人が卑怯者になりたくなかったのです。名前を書く時に、文字が震えないように気をつけたのを覚えています。こんな時にも、そんなことを考えたのです。(396~397頁)

 神風特攻隊への参加は志願制であった。すなわち、形式としては個人の自発的な意志によるものであったのである。「志願します」という項目以外のものを選択できない空気が支配していたのである。

 しかし今、確信します。「志願せず」と書いた男たちは本当に立派だったーーと。 自分の生死を一切のしがらみなく、自分一人の意志で決めた男こそ、本当の男だったと思います。私も含めて多くの日本人がそうした男であれば、あの戦争はもっと早く終わらせることが出来たかもしれません。(397頁)

 しかし、そうした空気の中で「志願せず」という断固とした意思表示をすることこそが勇気であり、若者の命をいたずらに落とすことを避けられた、という著者の示唆は重たい。逃げることは臆病だと言われる。しかし臆病だと言われることを覚悟してでも信念を持って逃げることこそが、勇敢なのではないか。私にとって本書は、感情に訴えかけられるというよりは、いろいろと考えさせられる小説である。

2013年9月1日日曜日

【第195回】『豊饒の海(四)天人五衰』(三島由紀夫、新潮社、1971年)

 松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャンからの輪廻転生と思われる安永透を養子にもらい受けた本多は、自身と透との人間としての近さに驚くとともに恐れをなす。その人格の近さが、他者および状況を観察し眺めるという認識能力に現れている。

見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現れないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のように溶解して、もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきっとある筈だ。(19頁)

 見ることとは、本質に迫ることである。しかし、見ることは信じることとも言われるように、見る主体である自己の絶対性を信じることは、対象と自身との距離を保つことにもなる。見られる世界と、そこから屹立した自身という存在。自分だけは特別という考えが、他者との距離を取ることに繋がる。そうした客観的な認識は、時に感情のうごめきをもどこか他人事として把捉することになる。

何かを拒絶することは又、その拒絶のほうへ向って自分がいくらか譲歩することでもある。譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎すのは当然だろう。(199~200頁)

 他者とともに自身をも高い視点から眺めることで客観的に理解できるというのは一つの不遜だ。透による本多への不遜な行動を捉えられ、透は、本多と第三巻から交流のある慶子から手厳しいしっぺ返しを受けることになる。

松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、飯沼勲は使命に、ジン・ジャンは肉につかまれていました。あなたは一体何につかまれていたの?自分は人とはちがうという、何の根拠もない認識だけにでしょう?(300頁)

 客観的な認識というと聞こえは良いが、それは自己の内側からの主体的な動機で動くことではなく、操り人形にすぎない。この指摘を受けて抜け殻になった透とは対照的に、老いによる自身の死を覚悟した本多は、自身の客観的認識や観察による世界の把握という方式を手放すことへと至る。清顕の激情の相手であった綾倉聡子との再会を前にした本多の決意に凝縮される。

自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るようなことはすまい。それはただ観念の想である。あるがままを見、あるがままを心に刻もう。これが自分のこの世で最後のたのしみでもあり、つとめでもある。今日で心ゆくばかり見ることもおしまいだから、ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう(321頁)

 死という終わりを意識することで始まることがある。本多にとっては輪廻転生を繰り返す主体を眺めるという観察者からの脱却を意味するのであろう。輪廻転生をはじめとした摂理を客観的に把握することは不可能なのだろう。それを読者にも投げかけるため、三島は最後にして大きな謎を残す。門跡となった綾倉聡子の口から、松枝清顕の存在自体を否定させるのである。

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼び覚まそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
 「それも心々ですさかい」(341頁)

 作品自体の存在をくつがえすような謎とともに『豊饒の海』は完結し、三島の人生もまた完結した。本書は、文字通り、三島にとってのライフワークである。