2013年9月22日日曜日

【第203回】『美しい日本の私 その序説』(川端康成、講談社、1969年)

 本書は、ノーベル文学賞を受けて著者が行った基調講演をもとにしたものである。日本人が日本という風土において見出す自然の美しさについて、自身が揮毫する際に用いる道元や明恵の作品等をもとに解説を試みている。

 雲を出でて我にともなふ冬の月  風や身にしむ雪や冷めたき

 明恵のこの歌を著者は揮毫する際に書くことがあるという。その理由について、著者は以下のように述べる。

 私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思ひやりの歌とも受け取れるからであります。雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこはいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷めたくないか。私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげてゐます。(10頁)

 ここには自然をやさしい存在とみなし、自然と人間とを共生関係として把握している様が見て取れる。自然という存在を人間が克服すべき存在として人間と切り分けて描かれる西洋近代と対比すると、自然と人間との共生という感覚から優しさが出てくるのであろう。

 こうした自然観は、自然を人為から隔絶した大きな存在として見出す良寛の辞世にも現れている、と著者はいう。

 形見とて何か残さん春は花  山ほととぎす秋はもみぢ葉

 現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれてゐる良寛、その人の辞世が、自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思はぬが、自分の死後も自然はなほ美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだらう、といふ歌であったのです。(14~15頁)

 偉大で美しい自然に対して人間はなにも付け足す必要性はないし、むしろ何かを足すべきではない。自分自身という小さな存在の死と対比することで、完成した大きな自然の美しさを表現する良寛の歌に日本人の自然に対する美意識が凝縮されている。

 このような自然観は、外的な自然と内なる自然という二つともに通ずるところがあるのだろう。臨済の言葉と言われる以下の禅語を用いて著者は説明している。

 逢仏殺仏 逢祖殺祖

 禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。そして、論理よりも直観です。他からの教へよりも、内に目ざめるさとりです。真理は、「不立文字」であり「言外」にあります。(23頁)


 自ずから然りと述べる「老子」にもあるように、自身の内側にあるものから悟りを自然に得ることこそが、最上の学びであり気づきであるのだろう。著者が述べるように、他者との対話や学問を探究することも重要であるが、それは良質な気づきの手段に過ぎないということを私たちは自覚するべきであろう。自身の内側と外側にある自然に対して開いたタイトを取ることこそが、<日本人>の美意識を用いた自然な態度ということなのではないだろうか。

『臨済録』(入矢義高訳注、岩波文庫、1989年)
『老子』(金谷治、講談社、1997年)
『タオ 老子』(加島祥造、筑摩書房、2006年)
『学問のすすめ』(福澤諭吉)

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