2013年9月28日土曜日

【第205回】『森の生活ーウォールデンー』(H・D・ソロー、佐渡谷重信訳、講談社、1991年)

 ペリーが浦賀に訪れたのと同じ時分に、ハーヴァードを出て20代後半で故郷コンコードのウォールデン池の近くでの自然の生活を始めたアメリカ人がいた。若くして思想家として活動していた著者が、森の中で生活を送りながら思索を探求しようとする姿勢は心地よく、また羨望に近い感情をもおぼえる。

 なぜ著者は森へと向ったのか。

 私が森へ赴いたのは、人生の重要な諸事実に臨むことで、慎重に生きたいと望んだからである。さらに、人生が教示するものを学び取ることができないものか、私が死を目前にした時、私が本当の人生を生きたということを発見したいと望んだからである。人生でないものを生きたくはない。生きるということはそれほど大切なのであるから、やむにやまれぬ事情がないかぎり、諦めることはしたくなかった。(139頁)

 自然の中で身の丈にあった生活を送りながら、時間に束縛されずに自分の頭で深く考えること。生活することと思想を探求することとは近いのかもしれない。しかし、だからといって私たちが森へ行かなければ探求できないということでもないだろう。「慎重に生き」られる場所は、各人によって異なるからである。

 思想を探求する上では、自身で考えるとともに、外からのインプットも触媒として必要になる。

 古典の研究が古いからといって放棄するのは、自然の研究を放棄することと同じである。きちんと読書すること、つまり、本物の書物を本物の精神で読むことは高尚な鍛錬なのである。それは今日の習慣が尊重しているどんな修練よりも、読者にとって努力を必要とする高尚な修練なのである。(155頁)

 ただ読み流すのではなく、書物と向き合うこと。そしてその書物とは、本物の書物であることが重要であり、古典と格闘して味得するということまでをも意味しているのではないだろうか。

 こうした知的格闘を経て、著者は自己認識を以下のように改める。

 私は、人間が二重人格を有していることを自覚している。それ故に、自分自身、他者と同様に距離を置いて超然としていられるのだ。しかし、私がどんなに情熱的な経験をしたとしても、私の感情の一部分と、そうでない部分が混然とし、後者が私自身を批判していることに気づいている。つまり、私の心の中には経験していない一人の傍観者が別に存在していることになる。(204頁)

 二重人格という言葉を見ると病的ななにかを想起せざるを得ないが、客観的自己把握やメタ認知という風に置き換えるとどうだろうか。もしくは平野啓一郎氏が述べるような「分人」(『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年))という社会学的な概念に置き換えてみても分かりやすい。このように考えれば、著者が描く人間像は、傍から見ればいつも動じないで芯を持った理想的な人物のようにも思えよう。

 こうした深い探求を経ながら、著者は約五年で森の生活をやめて、そこを去ることを選択する。その理由もまた、興味深い。

 私は森に入った時と同じ理由でそこを去ったのである。どうやら、私には生きるためには、もっと別な生活をしなければいけないように思えた。だから、森の生活のためにのみ時間を割くことは出来なかった。注目すべきことは、どのようにして人は知らず識らずのうちに、あるきまった生活にはまり込んで、自分自身の慣れ親しんできたやり方を踏襲するか、ということである。(463~464頁)

 環境要因の中の変化をしない部分に私たちは着目し、そこに合わせて自分自身の言動をルーティン化する傾向を著者はしてきするのである。したがって、いくら内的な世界の豊饒さを重視したところで、外的な世界を意識的に変えていく営為をほどこさないかぎり、私たちは日常を飽くことになってしまうのだろう。

 自分の眼を正しく内に向けよ、そうすれば分かるだろう 自分の心の中に無数の領域が 未発見のままであることが。その場所に旅をせよ、そして 自分の心の宇宙誌の専門家となれ。(460頁)

 なにか心に訴えかけるような素晴らしい詩だと思える。ジョブズのスタンフォード大での講演をリマインドさせる読者も多いだろう。この詩をよく噛み締めながら、自分自身の生き方について見つめ直してみることもまた、趣き深い。

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