2013年9月16日月曜日

【第201回】『不可能性の時代』(大澤真幸、岩波書店、2008年)

 著者は、日本の戦後史を、理想の時代、虚構の時代、そして不可能性の時代へと変遷するものとして描き出す。理想の時代とは、戦後の復興から高度経済成長期へと至る時代を指し、三種の神器に代表されるような、人々が容易に想起できる理想の生活を目指す時代である。その後、そうした理想が多様化し、現実への幻滅から虚構に対して価値を見出す虚構の時代へと変わる。

 理想の時代においても、虚構の時代においても、そこには目に見える対象物が存在した。しかし、現代の日本社会にはそうした対象物が存在しないことが社会学的な特徴であると著者は喝破する。こうした状況を、具体的な事物を認識したり、具体的に実践を行ったりすることから逃れて行く不可能性が現代社会を織り成す時代性であるとする。この逃避行動の両極が、一方は過度に具体的な事物を認識しようとする原理主義であり、もう一方は過度に多様性を重んじるリベラルな多文化主義に対応すると警鐘を鳴らす。

 現実と虚構からの逃避という現象を、著者はフーコーのパノプティコンを引きながら解説する。パノプティコンとは、中央に監視者がいて、その周辺に監視される囚人がいる監獄であり、監視者から囚人は見えるが、囚人からは監視者がどこを向いているかが分からない。いつ見られているかが分からない状況であるために、囚人はいつでも規律に沿った行動を取らなければならない。パノプティコンという監視装置の結果として、囚人は従順な主体として規律化される。このパノプティコンにおける監視者を国家に、囚人を国民として考えれば、近代的な国民国家の装置と同じであることは自明であろう。

 では、近代の産物である国民国家におけるパノプティコンという装置は、現代の日本社会ではどのように機能しているのか。著者は、<他者>から監視されることで主体性を築くこと、さらに言えば、<他者>から監視されないと主体性を築けないという恐れが行動原理となっているとする。mixiからTwitterを経て、相互承認によりフィードバックを与え合うFacebookの流行は、その最たる例である。

 ここにおける<他者>とは具体的な人物ではないことに留意をする必要があるだろう。私たちの多くが気にするのは、特定の人物からのフィードバックではなく、「いいね!」を押してくれる<他者>の数であり、「ともだち」という名の<他者>の数である。こうした<他者>性を為す関係性は、<他者>を求めながらも、同時に、具体的な<他者>を恐れているとも考えられる。こうした<他者>こそが、不可能性の時代の本質なのである。

 社会学とは仮説としての枠組みを提示する学問である。したがって、私たちは著者の考え方に拘泥する必要性はないが、他方で、仮説をもとに社会を眺める営為は大事であろう。

『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)
『まなざしの地獄』(見田宗介、河出書房新社、2008年)

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