道具が文明を創り、文明が道具を創る。文明と道具との相互作用の連環から外れたものへの違和感は、感覚が優れた者こそが感ぜられるものなのだろう。
実用方面の発明が独創的の方向を辿っていたとしたならば、衣食住の様式は勿論のこと、引いてはわれらの政治や、宗教や、藝術や、実業等の形態にもそれが廣汎な影響を及ぼさない筈はなく、東洋は東洋で別箇の乾坤を打開したであろうことは、容易に推測し得られるのである。(16頁)
純文学の書き手というものは美に対する意識が鋭敏である。著者は続けて、西洋における美意識と対比しながら、日本における美意識について以下のように述べる。
支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつるつる撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。して見れば、「風流は寒きもん」であると同時に、「むさきものなり」と云う警句も成り立つ。とにかくわれわれの喜ぶ「雅致」と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われわれは人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを想い出させるような色あいや光沢を愛し、そう云う建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が和やいで来、神経が安まる。(22~23頁)
続けて、日本人の生活に使われてきた調度品における美について著者はさらに説明を加える。
その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。(24頁)
さらには生活空間において、美を構成する光をどのように表現するか。ここにおいても、西洋と比べて日本における光の居住空間への活用は独特だ。
われわれは、それでなくても太陽の光線の這入りにくい座敷の外側へ、土庇を出したり縁側を附けたりして一層日光を遠のける。そして室内へは、庭からの反射が障子を透してほの明るく忍び込むようにする。われわれの座敷の美の要素は、この間接の鈍い光線に外ならない。(32頁)
こうした日本と西洋の美意識の違いは、両者の人生観への違いに繋がる。
案ずるにわれわれ東洋人は己れの置かれた境遇の中に満足を求め現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。然るに進取的な西洋人は、常により良き状態を願って已まない。(50頁)
進歩史観を前提とする西洋近代に対して、春夏秋冬と循環する四季を経験する日本社会。寒くて暗い冬や、鬱々とした梅雨に対しても独特の美を見出す日本人の精神性が、本書の書名に込めた著者の考えなのではないだろうか。
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