誠に恥ずかしいかぎりであるが、葉隠という存在を私は食わず嫌いしていた。どうしても、戦時中に戦地へ赴いた方々に読まれた軍国主義的な書籍というイメージを持っていたのである。しかし本書を読み、葉隠に対する認識を改めるとともに、本書の著者である三島に対するイメージも変わった。三島の自死に繋がる思想には共感しかねる部分が依然としてあるが、深い思索と伝統に対する意識には共感できる部分も多いように感じた。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一句自体が、この本全体を象徴する逆説なのである。わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見いだした。(10頁)
このあまりにも有名な一節が、死地へ赴くことを徒に美化したものとして、葉隠を戦争を賛辞した書籍というイメージへ結びつけた点は大きいだろう。私もその一人であった。しかし三島によれば、この一節をはじめとして、葉隠は逆説を提示する思索の書であったと指摘する。ここでも、死ぬことを美化することではなく、死を意識することで生きることの素晴らしさを伝えたものであるというのである。
おそるべき人生知にあふれたこの著者は、人間が生だけによって生きるものではないことを知っていた。彼は、人間にとって自由というものが、いかに逆説的なものであるかも知っていた。そして人間が自由を与えられるとたんに自由に飽き、生を与えられるとたんに生に耐えがたくなることも知っていた。(22~23頁)
ここでも逆説という概念が葉隠の一つの重要なポイントであることが指摘されている。死ぬことを意識するからこそ生きることを大事に思えるのであり、不自由があるからこそ自由の意義を感得することができるのである。三島の葉隠解釈は私にとって新鮮であり、葉隠という存在を狭隘な意味合いに限定するのではなく、その内包する豊潤な可能性へと意識が向くようになった。
逆説をキーワードとしながら、以下からは、三島が感銘を受けた葉隠の部分を見ていきながら、印象的であった部分を記していきたい。
常朝の言っている「死」とは、このような、選択可能な行為なのであり、どんなに強いられた状況であっても、死の選択によってその束縛を突破するときは、自由の行為となるのである。しかし、それはあくまでも理想化された死の形態であって、死はいつもこのような明快な形では来ないことを常朝はよく知っていた。死=選択=自由という図式は、武士道の理想的な図式であっても、現実の死はかならずしもそのようなものでないことを知っていた常朝の深いニヒリズムを、この裏に読みとらねばならない。(40頁)
葉隠は死を美化しているのではない。むしろ、死は必ずしも選択できるものではないという現実的な前提に立った上で、いかにして死を迎えるかが大事である。崇高な死や無駄死にといったように、死を分けて考えることは害悪である。いかなる死であれ、生まれて死ぬまでの人生をいかに捉えるかという意味付けにこそ意義がある。死を意識していかにして生きるかを、常朝は読み手に問うているのであろう。
「葉隠」は、一方的な、儒教的なかた苦しい倹約道徳に対して、初めから自由な寛容な立場を保っていた。あくまでも明快な行動、剛胆な決断を目標とした葉隠哲学は、重箱の隅をほじくるような、官僚的な御殿女中的な倹約道徳とは無縁であった。そして、その思いやりの延長上におのずから、見のがし、聞きのがしという、生活哲学を持ち出している。(44頁)
本書を読むまで、葉隠には儒教に近い印象、つまり道徳的で規律による統率を重視する書物であるという印象を持っていたが、そうではないと三島はここで述べている。論語というよりもむしろ老荘に近い寛容なイメージが強いものだと三島はする。細かなルールを遵守することや徒らに倹約を説くのではなく、自由かつ寛容な態度をこそ、葉隠は重視するのである。
長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことができない。それは向こうからふりかかり、おそってくるのである。そして生きるということは向こうから、あるいは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。「葉隠」は、そのような準備と、そして向こうから運命がおそってきた瞬間における行動を、あらかじめ覚悟し、規制することに重点を置いている。(49頁)
決断の前には深い思索と準備が必要だ。しかし、どれほど準備をしたところで、その準備が活きるような場面が訪れるとは限らないこともまた現実である。そうした現実を冷徹に踏まえた上で、それでも淡々と着実に準備をすること。そうした準備が活きない可能性があることを受け入れることを覚悟すること。これは現代の私たちに求められるキャリア意識にも通じる厳粛な言葉である、とまで解釈することは飛躍のしすぎであろうか。
常朝のいう意味は、武士とは全人的な存在であり、芸能をこととする人間とはファンクションに堕した一つの機能的な歯車にすぎないという考えがあったと思われる。すなわち、武士道一辺倒に生きるとは、一つの技術の習熟者として、一つの機能として扱われることではなくて、一人一人の武士が武士を代表しつつ、一人一人の武士が武士道全体を、ある場合には代表するという作用を営むものである。われ一人お国を背負うという覚悟をもって、大高慢で事に当たる武士は、そのときもはやファンクションではない。彼が武士なのであり、彼が武士道なのである。したがって、武士道一途に生きるときには、人間はただ人間社会の歯車に堕する必要はない。しかし、技術に生きる人間は、ことに現代のような技術社会の一機能として作用する以外に、自分の全人的な人生を完成することはできないのである。したがって、武士が全人的な理想を持ちながら、同時に別な技術に執着することによっては、機能をもって全体を蝕むことになるだろう。(64~65頁)
武士の反対概念として、技術に生きる人間が対比的に挙げられている。武士が全体的な存在で、自身を超えた全体を代表する気概を持っているのに対して、技術に生きる人間は部分としての機能を担う存在であり、責任範囲を限定しようとする存在として描かれる。私企業をはじめとした現代における組織では、私たちはともすると限られた責任範囲の中で働き、そこで求められる部分的な知識と技術によって生きようとしがちだ。そうすることによって、社会や企業に対する意識どころか、自分の部署への意識すら減衰してしまう。部分に囚われず、限定的な知識や技術に固執しないことが、全体への意識を涵養し、一個人の中に全体を見出すことができるのであろう。
「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。(69頁)
私たちは、給与の多寡や学歴の高低、資格の有無といった分かり易いものを対象として、自身の強みとして認識し易い。そうした客観的な代償物によって、何かが分かったように分別顔で判断してしまうこともあるだろう。安易に分かろうとすることや、知恵に流されることを戒めるこの部分は、臨済にも繋がる考え方(『臨済録』(入矢義高訳注、岩波文庫、1989年))であり、非常に興味深い。
いまの時代は“男はあいきょう、女はどきょう”という時代である。われわれの周辺にはあいきょうのいい男にこと欠かない。そして時代は、ものやわらかな、だれにでも愛される、けっして角だたない、協調精神の旺盛な、そして心の底は冷たい利己主義に満たされた、そういう人間のステレオタイプを輩出している。「葉隠」はこれを女風というのである。「葉隠」のいう美は愛されるための美ではない。体面のための、恥ずかしめられぬための強い美である。愛される美を求めるときに、そこに女風が始まる。それは精神の化粧である。「葉隠」は、このような精神の化粧をはなはだにくんだ。(80~81頁)
「女風」という表現はあまりに男性主義的な言葉遣いであり、そうした文脈では違和感をおぼえざるを得ない。しかし、言葉づかいを捨象し、この言葉によって三島が表そうとしている内実には深く考えさせられるものがある。男性であれ女性であれ、私たちは、人間関係を円滑にするために、他者に対して遠慮をしすぎ、嫌われないように意識し過ぎてしまいがちなのではないか。他者とのゆたかな関係性を築くことは素晴らしいことであろう。しかし、その動機が、三島が指摘するような「冷たい利己主義」に基づくものでないかどうかを自分の胸に問いかけるようにしたいものである。
図に当たるとは、現代のことばでいえば、正しい目的のために正しく死ぬということである。その正しい目的ということは、死ぬ場合にはけっしてわからないということを「葉隠」は言っている。(中略)
われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。(89~90頁)
三島は、「葉隠」を論じる上で、最後の部分でも生と死について改めて触れている。彼が死を語る場面では、どうしても彼自身の死を想起してしまう。彼は、自分が描く理想の目的のために、自分自身で死期を選んだ。そうした三島が、果たしてどういう想いを持って、この部分を彼が書き上げたのかに、興味がある。
以上が三島が葉隠について論じた部分に対する私の所感である。こうした前半部分に続き、本書の後半では、葉隠の引用と現代語訳があるのもまた、ありがたい。この後半部分から、印象に残った部分について二点ほど取りあげたい。
その道に深く入れば、終に果もなき事を見つくる故、これまでと思ふ事ならず。我に不足ある事を実に知りて、一生成就の念これなく、自慢の念もなく、卑下の心もこれなくして果すなり。(115頁)
いつまでも奢らずに、自分自身の課題を見出して取り組み続けることが道を極めるために大事であることは想像しやすい。この指摘に加えて、徒に卑下し過ぎないことを常朝が述べていることに深みを感じる。相克し易い両者をいかに調和させながら同時に意識するか。じっくりと噛み締めたい部分である。
一世帯構ふるがわろきなり。精を出して見解などのあれば、はや済まして居る故間違ふなり。尤も精を出して先ず種子は慥かに握つて、さてそれの熟する様にと修行する事は、一生止める事はならず。見つけたる分にて、その位に叶ふ事は思ひもよらず、只これも非也非也と思ふて、何としたならば道に叶ふべきやと一生探促し、心を守りて打ち置く事なく、修行仕るべきなり。この内に則ち道はあるなりと。(122頁)
固定的な考えを持ったり、ある考え方に固執するのではなく、真理を追い求めようと常に努力することを常朝は述べている。長期間にわたって努力して身に付けた知識や技術であるほど、私たちはそこに囚われてしまう。それらを否定することは、自分自身の努力を否定し、ひいては自分自身の存在意義を否定することに思ってしまうからである。しかし、努力自体が大事であることは自明であるが、そうして得られたものをもとらわれから解放し、自分自身の可能性を拓くことを常朝は指摘しているのであろう。