意味および言語と民族の意識的存在との関係は、前者が集合して後者を形成するのではなくて、民族の生きた存在が意味および言語を創造するのである。両者の関係は、部分が全体に先立つ機械的構成関係ではなくて、全体が部分を規定する有機的構成関係を示している。それ故に、一民族の有する或る具体的意味または言語は、その民族の存在の表明として、民族の体験の特殊な色合を帯びていないはずはない。(kindle ver. No. 30)
意味および言語と民族との関係性について、著者は後者が前者を規定するものであるとする。正直に記せば、私は、この両者は「相互依存関係」にあると逃げた表現でしか言えないものであるから、著者にここまで断言されると清々しささえおぼえる。他方で、その言明に全面的に賛意を示してよいものか分かりかねるものである。とはいえ、以下では、この著者の主張に基づいてすすめていく。
「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。(kindle ver. No. 219)
「いき」という概念が日本という風土および日本民族において固有のものであると仮定した上で、著者はその構成要素を三つ挙げている。たしかに、こうした定義であるとするならば、beautifulでもなく、coolでもなく、少なくとも英語では形容できないものであることは納得的である。
「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。(中略)我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないだろうか。(kindle ver. No. 254)
道徳的理想主義と宗教的非現実性という二つの概念によって位置付けられている点が重たい。本書が書かれたのは1930年、つまり満州事変が起こる一年前である。著者は、日本人の保有する文化には、道徳的理想主義と宗教的非現実性とがある、とあの15年にわたる戦争が始まる一年前に既に提起していたのである。そうした文化にはポジティヴな側面もあることには理解しつつも、ネガティヴに作用するとあのような戦争を肯定する思想的バックボーンになりかねない。こうした捉え方であれば、私たちはいま一度、日本文化論を頭と心で意識することが必要なのではないだろうか。
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