2015年3月28日土曜日

【第426回】『<民主>と<愛国>』(小熊英二、新曜社、2002年)

 「注」および「あとがき」に至る前まで829頁を要する大部である。学生時代に読んだ時は、あまりに長くて途中で嫌になりながら苦労して読み切ったものだが、今回、読み直してみると、すんなりと読めたのだから不思議なものである。著者の歴史社会学の講義を学部時代に学んでいたことも奏功しているのであろうが、書かれていることはクリアであり、よく理解できる。

 本書の主題は、「戦後」におけるナショナリズムや「公」にかんする言説を検証し、その変遷過程を明らかにすることである。(11頁)

 まず、本書の目的が冒頭で簡潔に述べられている。この部分を足がかりに読み進めていくこととしよう。

 われわれが使用している言語は、歴史的な経緯のなかで生みだされ、変遷してきたものである。そのなかには、「市民」「民族」「国家」「近代」といった、ナショナリズムや「公」を語る基本的な言葉が含まれている。そして本書における「戦後」の再検討は、こうした言葉の使用法が、いかなる変遷を経てきたかの再検討でもある。それは同時に、現代に生きるわれわれが、われわれを拘束している言語体系をみつめなおし、ものごとを論ずる回路を開くための基礎作業にほかならない。(17頁)

 言語体系が私たちの思考を規定するという側面がここで指摘されている。つまり、私たちは、過去を否定しようとしても、その際には過去の言葉を使わざるを得ない。これを思考のパラダイムと呼んでも良いだろうし、ラングがパロールを規定すると言っても良いだろう。何れにしろ、こうした私たちを取り巻く言語体系に対して自覚的になること。そうすることは迂遠な道のりのように思えても、その作業を繰り返すことが私たちには求められる。本書は、こうした地道な作業を丹念に行なった著者の足跡が記された作品とも言えるだろう。

 丸山の「超国家主義」分析は、彼の戦中の思想の延長であった。すなわち日本社会では、「自由なる主体的意識」を持った個人が確立されておらず、そのため内発的な責任意識がない。そこでは権力者さえもが、責任意識を欠いた「陛下の下僕」あるいは「下僚のロボット」でしかないという、「無責任の体系」が支配する。それと同時に、上位者から加えられた抑圧を下位者にむかって発散するという「抑圧委譲」が各所で発生する。そしてそれが国際関係に投影されたのが、欧米帝国主義からの圧迫を、アジアへの侵略で晴らすという行為だったというのである。
 さらにこうした日本社会では、近代的な「私」が確立されていないため、「公」と「私」の明確な境界もない。そこで発生するのは、「公」の名による私生活への介入であり、「公」に名を借りた私的利害の追求である。また近代的な政教分離もなされておらず、最高権力者である天皇が同時に倫理の頂点となり、「天皇からの距離」が、政治的地位であると同時に倫理の評価基準にされたという。(85~86頁)

 前段はアーレントによるナチスに関する考察を読むかのようだ。それに加えて、あの戦争では抑圧委譲という上下の関係性も起因してアジアへの侵略までなされたと分析している。ここで近代的な「私」という近代的な考え方が触れられているが、著者はさらに考察を加えて、当時の丸山が近代という言葉に含意した内容について踏み込んでいる。

 丸山や大塚が「近代」という言葉で述べていたものは、西洋の近代そのものではなかった。それは、悲惨な戦争体験の反動として夢見られた理想の人間像を、西洋思想の言葉を借りて表現する試みであった。「個」の確立と社会的連帯を兼ねそなえ、権威にたいして自己の信念を守りぬく精神を、彼らは「主体性」と名づけた。そうした「主体性」を備えた人間像を、丸山は「近代的国民」とよび、大塚は「近代的人間類型」とよんだのである。(100頁)

 ここでは「無責任の体系」に取り込まれない強い「個」の確立を前提にした社会的連携が「主体性」として重視されている。こうした「主体性」を生み出す源泉としての理想として、「近代」という言葉が丸山らによって使われたことに私たちは留意する必要があるだろう。

 敗戦直後における天皇の戦争責任追及は、日本のナショナリズムを否定するものではなく、天皇を中心とした戦前のナショナリズムに代わる、新たなナショナリズムの模索であった。そしてそこでは、「日本」にたいする「忠誠」が、天皇にたいする「反逆」になるという交錯が、示されることになるのである。(104頁)

 敗戦直後の時期における言論環境においては、先述した「主体性」の確立とともに「天皇制」の打破が唱えられたことがその特徴であった。

 戦後半世紀以上を経たこんにちでは、官僚の権威的姿勢を「天皇制」と表現することはほとんどなくなった。しかし当時は、「天皇制」という言葉は、戦中に人びとが隷従を強いられた権威主義の象徴としても、使われていたのである。(128頁)

 日本国憲法における象徴天皇という考え方が浸透している現代においては、天皇という存在や天皇制というシステムに政治的な面影を見出すことは難しい。しかし、あの戦争直後における時期においては、天皇制とはすなわち権威主義の象徴として認識されていた。そのため、打破する対象として天皇制が掲げられていたのである。では、天皇制を打破しようとするエネルギーは、主体性の確立へと向けてどのような方向性に向かったのか。

 敗戦後における「主体性」とは、マルクス主義をはじめとした、体系的な理論に回収されることが困難な心情を表現した言葉であった。人びとは、戦争と敗戦という巨大な社会変動に翻弄されるなかで、自分自身を納得させる説明をもとめて、「世界史の哲学」やマルクス主義の説く「歴史の必然性」を信じようとした。しかしそうした理論的な説明に納得しきれない「自己」の残余の部分が、別種の言葉をもとめる原動力となったとき、それが「主体性」という言葉で表現されたのである。(231~232頁)

 当時の人々が、帝国主義や膨張主義と呼ばれる天皇制を基にしたシステムに対するグランド・セオリーとしてのマルクス主義へとまず向かおうとする心情は共感できるものがある。強いセオリーには、強いアンチとしてのセオリーを必要とするものだ。しかし、著者によれば、マルクス主義の主張する歴史の必然性から零れ落ちる心情的な部分が回収困難であったために、「主体性」確立の運動はマルクス主義には収斂しなかった。

 一九五〇年代前半では、「単一民族」は既成事実ではなく、めざすべき目標であり、人びとの参加によって「創造」されるべきものだった。そしてこの時期においては、<みんなが一つになる>という言葉も、「連帯」の意味で使用されていた。しかし高度成長を経て、「単一文化」が既成事実となったあとには、それらは均質化と抑圧を意味する言葉に変わっていったのである。(303頁)

 現代では想像しづらいが、「主体性」確立の動きの一つとして、「単一民族」が目指すべき目標として左右の陣営を問わず主張された。その一方で、高度成長を経ることで日本全国における想像上の「単一文化」が創造されることによって、「単一民族」という言葉が均質化と抑圧を含意する概念へと変容した。それ以降における言説構造に私たちは慣れているため、「単一民族」という概念と特定の政治思考とを結びつけて考えてしまうのであろう。

 敗戦後の教育論を拘束していたのは、戦争によって刻印された行動様式であった。「皇道日本」から「主権在民の国」に言葉が変わっても、共通語を普及し、教師の指導性をうたい、反米を唱え、「民族」や「伝統」を賞讃し、「国家目標」を求めるという行動様式は、じつは容易に変化していなかった。思想的な対立とは裏腹に、保守派と相通ずる部分が生じたのも、そのためであった。敗戦後の教育学者や教師たちは、おそらくは自分でも意識していないうちに、刻印された行動様式に拘束されたまま、失われた「国家目標」の代用品を探すという状態を、敗戦後も一〇年以上にわたって継続していたのである。(393頁)

 教育界における混乱も同様であった。現代から考えれば、戦前と戦後とでは真逆の主義・主張を教学校において教師は教育しているにも関わらず、そこで使われる言葉は、戦前を引き継いだものでしかなかった。こうした教育界における混乱、言論界における苦闘の結果として、目指すべき目標として行き着いたものの一つが日本国憲法である。

 憲法擁護の「国民連合」が結成されはしたものの、憲法を心から支持している政党は存在しなかったといってよい。それにもかかわらず、憲法擁護がこの時期に浮上したのは、それが「平和」や「民主主義」とならんで、保守政党に対抗する諸勢力の最大公約数的なスローガンだったからである。(492頁)

 制定当初は保守政党が支持し、共産党が反対に回った日本国憲法。それがいわゆる五十五年体制以降は、野党が共通して提示するスローガンとして定着したという。これは、教育界における護憲運動とも通ずるものであろう。

 全共闘運動は、旧来型の大学および知識人のありようと、大衆化してゆく社会のあいだのギャップ、すなわち「エリート的意識と存在の決定的欠落」という問題が、いわば一回限りの爆発をおこしたものだった。そしてこの運動は、皮肉にも彼らが志向したのとは異なる方向で、そのギャップを解消する効果をもたらしたといえる。(586頁)

 憲法擁護の動きが旧来型の知識人や政治家によって形成されたのに対して、その数年後に起きた全共闘運動では、戦争を経験していない世代によって為されたものである。いわゆる団塊の世代を中心としたこの運動では、旧来型エリートと自分たちとの間における、意識のギャップや社会における存在におけるギャップが起爆剤となった。そうした意味では、社会の変容への対処としての爆発的な運動であり、何らかの思想や主義・主張を生み出す運動にならなかったことは自明なのかもしれない。その結果として、大衆化が進行したことは、皮肉な帰結とも言えるだろう。

 吉本にとってみれば、私生活への没入を批判する丸山の思想は、「ああ、吉本か。お前は自分の好きな道をゆくんだな」という戦死者の言葉を想起させるものであったろう。(中略)
 これは、まさに「私」による「公」の解体であった。こうした「私」志向は、敗戦直後から社会現象としては存在したが、多くの戦後知識人はそれを批判する立場をとっていた。「私」による「公」の解体という思想は、高度経済成長の入口にあたるこの時期に、「戦後民主主義」を批判する側から現れたものだったのである。(644頁)

 公と連帯を説いた丸山眞男に対して、安保闘争以降に私による公の解体を主張した吉本隆明。全共闘世代に思想的なバックボーンを与えたのが、前者でなく後者であることは分かりやすいだろう。丸山が積極的に方向性を導き出そうとしたのに対して、吉本は既存のものを解体することに注力した。ポストモダンが西欧で流行した時期であったことも、吉本が受け入れられやすい下地となっていた、と考えられるのかもしれない。

 鶴見にとっての戦死者たちは、国家による分断を拒み、「日本の死者」「アジアの死者」という分断を拒み、「ナショナリズム」と「インターナショナリズム」の二項対立を拒む存在であった。鶴見が批判した国家とは、こうした国境をこえた死者たちに、分断をもちこむ存在だったのである。(752頁)
 小田が従来から抱えてきた「護られるべき祖国とは何か」という問いに、一つの回答が与えられた。「祖国」とは自分が信ずる原理であり、地縁や血縁と一致する必要はない。ましてや、政府の命令と一致する必要もない。時には政府の命令に反逆し、その政府の管轄する土地から亡命することが、自分が信じる「祖国」への「愛国」となる。それは、「ナショナル」でも「インターナショナル」でもない「人間」の原理だというのである。(784頁)

 ベ平連を主導した両者の国家観もまた、興味深い。ネーション・ステートとしての国家には拠らず、死者や人間への愛をもとにして意味付けを行なう。そうした考え方と一致するかたちで、当初のベ平連の活動やベトナム戦争からの脱走兵の救助活動といった行動が為されたのである。

 戦争体験は国民共通の経験という印象を創りだしてはいたものの、実際には世代だけでなく出身階層や居住地域、さらには戦闘や空襲の経験の有無といった偶然によって異なっていた。戦争は、国民全体を巻きこみはしたものの、均質な現象ではなかったのである。(808頁)

 結論として著者が述べているのは、言われてみれば当り前のことであるにもかかわらず、戦争を知らない世代からするとハッとさせられる事柄である。つまり、「戦争を体験した世代」と一括りにしても、その際の社会的地位、年齢、居住地域によってその体験のしかたは千差万別である、ということである。したがって、戦争を経験した上で述べる主張というものも、それぞれに事実ではあろうが、それぞれにその色合いは大きく異なることになる。

 新しい時代にむけた言葉を生みだすことは、戦後思想が「民主」や「愛国」といった「ナショナリズム」の言葉で表現しようと試みてきた「名前のないもの」を、言葉の表面的な相違をかきわけて受けとめ、それに現代にふさわしいかたちを与える読みかえを行なってゆくことにほかならない。それが達成されたとき、「戦後」の拘束を真に乗りこえることが可能になる。(829頁)

 それぞれに戦争への受容が異なる人々が、苦闘しながら「名前のないもの」に名前を当て嵌めてきた戦後における思潮。私たちはそれらを引き受けながら、私たち自身も、苦闘しながら意味付けを行ない続けることが求められているのであろう。


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