2015年3月29日日曜日

【第427回】『他力』(五木寛之、講談社、2000年)

 神や仏の存在を信じる者も、信じない者も、目に見えない世界を認める者も、認めない者も、世界中の民族や国籍を超えて<非常時>に生きる私たちを、強く揺さぶるエネルギーがそこにはある。そして、この他力の世界こそ、いま私たちが無意識に求めている「何か」ではないか、と思うのです。(25頁)

 自力ではなく、他力という仏教の考え方が今の時代に求められる、と著者はしている。私たちが生きる世界は通常時ではなく非常時であり、非常時には自分自身ではなく他力に頼らざるを得ないからである。

 無風にめげず、じっと風を待ち、いつでも風に応ずる緊張感、その努力をヨットマンにあたえ、そして「いつか風は吹く」というくじけぬ信念を持続させるもの、それこそまさに<他力>の働きだと思うようになったのです。
 「やる気」をおこすこと、また、「人事をつくして天命を待つ」という気に、おのずとさせる不思議な力、それこそまさしく<他力>の働きの本質でしょう。(41頁)

 他力という考え方は、なにも受け身の姿勢ということではない。そうではなく、他の存在の力を感じながら、それらが自分にとっての力になるタイミングが訪れるまで緊張感を持ちながらじっと待つこと。そうした前向きな受け身性が、他力という考え方なのであろう。

 思った以上に物事がうまくいくことがある。人からもほめられ、自信もますますついてくる。そういうときは、むしろ立ちどまって、じっくり考えてみるべきでしょう。
 「わがはからいにあらず」
 そうつぶやいてみるのです。目に見えない大きな順風が吹いて、その<他力>が物事を自分の実力以上にうまく運んでくれたのだ、と。
 そういうときは、謙虚に<他力>に感謝すべきでしょう。決して得意になるべきではありません。とはいうものの、それができるかできないかも、やはり「わがはからいにあらず」となれば、<他力>の道もまた難きかな、ということです。(44頁)

 思いのほかうまくことが進み、他者から評価される状態が続くと、自分自身に実力がついたと私たちは思ってしまう。しかし、そうした他者からの評価や短期的な結果というものは、他力がもたらしたものであると考えた方がいい。そうすれば、夜郎自大に陥ることもなく、また身の回りの人々や環境に率直に感謝の気持ちを持つことができる。

 マイナスの勇気、失うことの勇気、あるいは捨てることの勇気。現実を直視した究極のマイナス思考から、本物のプラス思考が出てくるのです。(82頁)

 プラス思考が悪いものであると著者は述べてはいない。そうではなく、物事の事象を深く味わうことなく、何でもプラスに解釈しようとする風潮に警鐘を鳴らしているのである。どのような現実であれ、充分に向き合って直視し続けることで、新しい認識の有り様を私たちは身につけられるのではないか。

 諦める、というのは、物事を消極的に、後ろ向きに受けとめることではなく、言葉の本来の意味「明らかに究める」、勇気を持って現実を直視する、ということでしょう。
 見たくない現実を、認めたくない事実をリアルな目で直視する。これが諦めるということです。まずきちんと認める、確認するという、その作業から出発しなければならないということです。(90~91頁)

 現実を直視し続けるという姿勢は「諦める」という言葉の本義である「明らかに究める」という姿勢に結びつく。「諦めたらそこで試合終了」という考え方(『スラムダンク(全31巻)』(井上雄彦、集英社、1991年〜1996年))が必要な時もあろうが、「明らかに究める」という考え方もまた、私たちには大事である。

 古い仏教の言葉で<横超>という言葉があります。問題を解決しようとしてまっすぐ進んでいったときに、どうしても突破できない高くて厚い壁があったとする。そうした際に、いったん曲がって横に逸れてみる。壁の前で座り込んで挫折するのではなく、一度大きく遠回りしたり、壁の下を掘り進んでみるという考え方です。
 深刻な悩みを抱えて、もう死にたいと思い詰めている人たちは、この<横超>という考え方を是非思い起こしてほしいのです。(108頁)

 私には「明らかに究める」と「横超」とはセットで捉えると良いように思える。つまり、現実を直視し続けながら、自分なりに努力を試みてみて、それでもなお存在する目の前の大きな壁を認識する。その際に、そこで挫折するのではなく、視野を広く捉えてみて、他の脇道を探し、迂遠な道を歩こうとすること。こうした考え方が、現代を生きる私たちには重要なのではないだろうか。

 組織論と結びついてきますが、人材を集めて精鋭部隊をつくり、物事を進めていくときに、変な奴とかやる気のない奴とか、そうした連中が仲間に加わっているほうが人間的な組織になるのです。そういう人間的な状況の中で、やる気のない奴が偶然に仕事の手を抜いたため、思わぬミスが起きたが、それが結果的にすごくよいものに変化したり、思いもかけない成功につながることだってあるのです。(147~148頁)

 効率性を重んじようとすると、ベストな人材だけを選ぼうとして組織を構築しようとする。しかし、いろいろな人材が玉石混淆のように存在するからこそ組織は強くしなやかなものになる、という著者の考え方はよくわかる。俗に人事の世界では「四分六」という言葉がある。つまり、どのような人員構成であっても、組織というものは、2割の上位の人材、6割の中位の人材、2割の下位の人材、とに次第に別れていくという考え方である。もしそうだとしたら、むしろ最初から様々な人材がいることを前提にして、人間的な組織を構築・運営しようとする方が良いのではないか、と思えてくる。

 対治は否定から出発しています。悪を否定する、病気を否定する。不自由を悪と考え、それを叩きつぶし、切除することで善を回復しようとする。そういう対立と攻撃の思想がヨーロッパ近代文明の一面です。しかし、老いを否定できるでしょうか。死を否定できるでしょうか。それはできません。とことん打ちひしがれた人々を救うのは肯定の思想、同治の思想なのではないか。
 いま大切なのは<励まし>ではなく<慰め>であり<悲>なのだと強く感じるのです。(272~273頁)

 何事もポジティヴに解釈し、問題を効率的に解決しようとする。むろん、そうしたアプローチが機能することもあるだろうし、一部のスーパー・スターのような人々はその進め方で生きていけるのであろう。しかし、強者の論理だけでは、<普通>の人々としての私たちは生きていくことはできない。そうした時に私たちにとって大事になるのが、弱さやショックと寄り添いながら向き合うという<慰め>や<悲>という考え方なのである。


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