2015年9月28日月曜日

【第494回】『白い巨塔(一)』(山崎豊子、新潮社、2002年)

 約十年前に読んで感銘を受けた本シリーズ。財前の最期のシーンを読みながら、電車の中で滂沱と涙したのが懐かしい。自ずと財前に焦点を当てながら読み進めているのであるが、なかなか感動的なものは少ない。主要なポイントと結論は分かっていても、物語じたいに引き込まれてしまうのは、名作といわれるものの為せる力であろう。

 そんな馬鹿なことが、外科の助教授として俺ほどの実力のある者が何という気の弱い、ありそうもないことを考えるのだーー、財前五郎は、その精悍なぎょろりとした眼に鋭い光を溜め、毛深い手で唇の端にくわえている煙草を、ぽいとコンクリートのガラの上へ投げつけると、さっきと同じように自信に満ちた足どりで、助教授室のほうへ足を向けた。(12頁)

 財前に対する私のイメージは、まさしくこのシーンに凝縮されている。自分に対して自信を持ち、意欲的に動き回る人物。企業に勤めているとこうした傑物に出会う機会というものは少ないのかもしれないが、一つの理想として思い描く人物像であることは間違いないだろう。

 黒川五郎が財前家の人間になってからは、息子の給料の中から送ってくる仕送金を受け取る以外は、財前家に面倒をかけたり、不必要に財前家を訪うようなことを一切、さしひかえている母の姿の中に、財前は母の愛情の深さと独り暮しの寡婦の健気さを感じ、母のもとへ帰ってやりたいような思いに襲われることがあった。しかし、助手の時代から今日までつまらぬ金の苦労をせずに、研究にだけ力を傾け、三十五歳助教授になり、それから八年の間も、地方病院へ出されることもなく、次期教授の候補者として人の口にのぼせられるようになったのは、寡婦である老母が田舎でのわびしい独り住いに耐え、財前五郎の医学者としての出世のみを念願し、喜びにしてくれている賜であることを思うと、財前は、今年七十五歳の母が健在なうちに教授になって、母を喜ばしてやりたいという平凡であるが強い願いが湧き上がって来た。(31頁)

 財前に私が魅了されるのは、 数少なくはあれども、こうした人間らしい描写の故であるのかもしれない。自己顕示欲も然り、母への愛情も然り、自然のままの人間という感じが、財前の魅力なのではないだろうか。

 東は暫く黙り込んでいたが、やがて妻の言葉に頷きながら、人事なんてものは、所詮、こんなつまらぬ些細なことで決まるものなんだ、何もこの場合だけじゃない、他の多くの場合だって、大なり小なり、こうした要素を持っている、人間が人間の能力を査定し、一人の人間の生涯をきめる人事そのものが、突き詰めてみれば必ずしも妥当ではない、残酷な、そして滑稽な人間喜劇なんだーー、自分の心に向って弁解するように云うと、東は、残っているコップの水を、ぐうっと一気に飲み干した。(264~265頁)

 次期教授戦において、財前と対立することとなる、彼の指導者である東。その対立の様も人事を巡る一つのドラマとして興味深いとともに、人事という現象に対する東のつぶやきは、人事パーソンにはいたく考えさせられる一言である。

『白い巨塔(二)』(山崎豊子、新潮社、2002年)
『白い巨塔(三)』(山崎豊子、新潮社、2002年)
『白い巨塔(四)』(山崎豊子、新潮社、2002年)
『白い巨塔(五)』(山崎豊子、新潮社、2002年)

2015年9月27日日曜日

【第493回】『新版 禅とは何か』(鈴木大拙、角川書店、1954年)

 読み応え充分な、大家による禅の入門的講義録。

 今日では人間も人間と見ないで一個の機械と見てこれを分析する結果、概念が固定して来る傾向がある。これは人間に取って最も恐ろしい見方をするものであるということを考えてみねばならぬ。生きた人間は元来総合的である。(19頁)

 分別智は、物事を固定して捉え、その意味合いの多様性を捨象してしまう。それに対して、禅においては、物事の多様性を前提にし、その可変性に焦点を当てる。だからこそ、人間を総合的に見ることができる。

 知恵というものを、大体二つに分けて、一つの知恵は、学問の上でわれわれが学ぶ、他人から伝えられ、そしてそれを学習することのできる知恵、ーー(中略)しかしながら世の中にはそういう風にしては修得することのできないもう一つの知恵がある。これは人から教えられる、他から伝えられるというよりも、自分の心の中から自然に開発するところの知である。いわゆるこれを直覚の知恵と言ってもよろしい。(55~56頁)

 知に関する二つの捉え方は、形式知と暗黙知にそのまま該当すると考えるのは飛躍であろうか。私たちはともすると形式知にばかり目が向き、暗黙知を軽視しがちになってしまう。だからこそ、他者が持っているものをうらやみ、自分自身を卑下し過ぎてしまう。そうではなく、自分の内面から多様な暗黙知を紡ぎ出すことを、禅では重要視している。だからといって、徒に自分を肯定するだけでは固定的なものの見方となってしまい、禅的なものの見方とは相反する。自分自身を開発し変容するという実践を通じて、自分自身の中から生まれる知を重視するということが禅的な考え方なのではないだろうか。

 自分のためにするということは、決してそれだけでできることでなくして、人のためにするということがあって、初めて可能である。自利利他ということを仏教で言うが、それが両方に行なわれなければならぬということがよほど大事である。(76頁)

 ビジネスに置き換えるとしたら、顧客のためにすることが、翻って自分のために為すことに繋がるということであろうか。大事にしたい考え方である。

 機械を使うというと、人間が機械になるのでないことはいうまでもないが、人間はまた妙にそれに使われる。使うものに使われるというのが、人間社会間の原則であるらしい。人間が機械をこしらえて、いい顔をしている間に、その人間が機械になってしまって、その初めに持っていた独創ということがなくなってしまう。近代はますますひどくなってその弊に堪えぬということになっている。
 この弊に陥らざらしめんため、宗教がある。宗教は常に独自の世界を開拓して、そこに創造の世界、自分だけの自分独特の世界を創り出して行くことを教えている。宗教によってのみ、近代機械化の文明からのがれることができると私は思う。(100~101頁)

 哲学の用語を用いれば疎外ということが述べられている。ここで興味深いのは、人間疎外から逃れるための存在として宗教の意義が述べられている点である。特定の宗教を持たない人々は、宗教に対して構えてしまいがちであるが、こうした積極的な意義に関して着目することも重要なのであろう。

 自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力はもうこれ以上にできぬというところに働いて来る。他力は自力を尽くしたところに出て来る。(118頁)

 自力と他力。どちらが大事ということではなく、相補関係であることを意識したいものだ。

2015年9月26日土曜日

【第492回】『禅と日本文化』(鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1940年)

 禅は、無明と業の密雲に包まれて、われわれのうちに睡っている般若を目ざまそうとするのである。無明と業は知性に無条件に屈服するところから起るのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自から論理を蔑視する。(3頁)

 ここに禅の鍛錬法の一風変ったところがあるのだ。それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。(中略)それゆえ、禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)というのである。(7頁)

 禅とは、知的作用から形成されるものではない。したがって、論理や言葉によって表現されるものを重視しない。こうした考え方に基づいて、不立文字という概念が形成される。

 『一即多、多即一』という句は、まず「一」と「多」という二概念に分析して、両者の間に「即」をおくのではない。ここでは分別を働かしてはならぬ。それはそのまま受取って、そこに腰を落ちつけねばならぬ。(32頁)

 言葉を用いないという理想を持つことは、物事を分けて考えるというアプローチからの脱却を志向することを意味する。したがって、ある物事を認識するということは、その意味内容を分析するのではなく、そのものを直観的に把捉することであり、そこに介在物は存在しないのである。

 心を身体のいかなる一部分にも残しておくべきでない。身体のあらゆる部分に心を充せて思ふままに働かせなければならぬ。なにかなすという考えは、心をその一方面に向け、他のすべての方面が等閑にされる。考えるな、思い煩うな、分別を持つな、そうすれば心は到るところに行きわたってその全力が働き、つぎつぎと手近の仕事を成就するであろう。いっさいの事において一面的ということを避けるべきだ。心が一度、どこか身体の一部分に捕えられていると新たに働くときは、その特定の場処から取出して、いま要するところに持ってこなければならぬ、この転換はじつに容易ならぬ仕事である。心は一般に「止」まらせられたところに、停滞することを欲する。(79~80頁)

 優先順位を付けて、少数のものに注力することが最近の仕事では求められることが多い。全てのものを同等に扱い、こなしていこうとする姿勢は認められないものだ。しかし、著者によれば、頭で考えて優先順位を付ける方法は、心を置き去りにし、結果的に良い仕事に繋がらない。マルチタスクを行なうことで、多様な顧客や相手に貢献できることが、無心に努力するということなのであろうか。

 生れながらの名人はなく、かぎりない苦心を経験した後にはじめて名人になる。かくのごとき経験の連続のみが芸術の秘密な深処、すなわち、生の源泉の直覚へ通ずるのである。(156頁)

 多様な目の前の仕事に取り組もうとすれば、苦労することは多くなるはずだ。そうした一つひとつの失敗は時に私たちの気力を失わせるものである。しかし、そうした苦心を経験した後に、私たちはなにかのプロフェッショナルへと近づけるものなのであろう。

 最後に、内省を込めて取り上げたいのが以下の言葉である。

 いかなる俗事に携ろうとも、それを汝の内省する機会として取上げよ。(41頁)

 忙しいから内省できないのではなく、あらゆる物事において内省することを機会とすること。

2015年9月23日水曜日

【第491回】『日本的霊性』(鈴木大拙、岩波書店、1972年)

 実家に帰ったり旅行に行くことを決める時に、その行き先や内容を決めることと同様に私にとって重要なことは、何の本を持っていくかである。今回、実家に五日間ほど帰る上で選んだのは著者の何冊かの本である。著者の一連の著作を読んだのは少し前のように記憶していたのであるが、五年も遡ることに気づいて驚き、また中身を読んで初読のような印象を受けて愕然とした。最初に読んだ際に感銘を受けたために書棚に陳列しているのであるから、ある程度は内容を記憶していると思ったのであるが、理解力や記憶力とはそれほど当てにならないものだ。

 まず、書名にもなっている「霊性」について、緒言において著者は以下のように精神と比較しながら説明を試みている。

 精神が話されるところ、それは必ず物質と何かの形態で対抗の勢いを示すようである、即ち精神はいつも二元的思想をそのうちに包んでいるのである。(15頁)

 霊性という文字はあまり使われていないようだが、これには精神とか、また普通に言う「心」の中に包みきれないものを含ませたいというのが、予の希望なのである。
 精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中では、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることができない。精神と物質との奥に、いま一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などいうことは免れない、それでは人間はどうしても生きていくわけにいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。(16頁)

 精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。(17頁)

 二つのもののあいだに媒介者を入れないということである。何ものをももたないで、その身そのままで相手のふところの中に飛び込むというのが、日本精神の明きところであるが、霊性の領域においてもまたこれが話され得るのである。霊性は、実にこの明きものを最も根源的にはたらかしたところに現われ出るのである。(26頁)

 精神には二元論的な作用を生み出すことが含意されている。物質を反対概念に置くことで精神という意味合いが導き出される。こうした作用自体も、精神が為すものであり、精神と対立する物質という対立関係を括弧に括るような作用を生み出すのが霊性である、と著者はしているのであろう。このように考えれば、霊性とは、Aと非Aを比較によって対比的に分別する智識ではなく無分別智であり、直観的かつ全体的に把捉する作用であると理解できよう。

 こうした霊性が「日本的霊性」としてどのように顕現されたのか。

 仏教は単に日本化して日本的になった、仏教は日本のものだということで、話は済むのでない。自分の主張は、まず日本的霊性なるものを主体に置いて、その上に仏教を考えたいのである。(65頁)

 インドの空想と思惟力とがシナの平常道に融合して、それが日本へ来て日本で生長したのだから、いわばすべてご馳走のうまいところをみな吸いあげたと言ってよい。そうしてそれが一方では禅となり、他方では浄土系思想として現われ、念仏として受入れられた。(76頁)

 ここで著者が力説しているのは、仏教が日本的霊性を生み出したのではなく、日本的霊性というカタチのないものが仏教によって顕現されたということである。その上で、私たちが受容する際には、禅と念仏という形式に落ち着き、日本における文化を形成する土台となったのである。

 では日本的霊性とはどのような内容を意味するものなのか。

 超個の人(これを「超個己」と言っておく)が個己の一人一人であり、この一人一人が超個の人にほかならぬという自覚は、日本的霊性でのみ経験せられたのである。(87頁)

 日本的霊性は、個己の情性的方面に発動するというべきものがある。(中略)根源的というと何か抽象的な、一般的な、概念的な論理上の仮定または要請のように思われるが、それは物事が対象的に考えられてのことである。「根源的」が情性的で個己そのものであるとき、それ以上に具体的なものはないことになる。これが「一人一人」である。(88~89頁)

 霊性のはたらきの二方面は、知的直覚と意的直覚とであるというと、前者は感性と情性の上に働き、後者は意欲の上に働くと見ておきたい。(116頁)

 日本的霊性は、個別的であるとともに全体的であり、主体的であるとともに客体的であるとされている。使い古された言い方ではあるが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という小学校でよく言われる標語の類いは、日本的霊性の為せる表現ではないかと邪推してしまう。組織における個人は、他と切り離された純然たる個人ではなく、主体と客体とが綯い交ぜとなった存在ということであろうか。

 こうした日本的霊性が具体的に現われたものの代表例として、一人の人物と一つの文学作品が挙げられている。

 特に親鸞聖人を取上げて日本的霊性に目覚めた最初の人であると言いたいのは、彼が流竄の身となって辺鄙と言われる北地へいって、そこで大地に親しんでいる人と起居を共にして、つぶさに大地の経験をみずからの身の上に味わったからである。日本的霊性なるものは、極めて具体的で現実的で個格的で「われ一人」的である。この事実が直覚せられて初めて日本的宗教意識の原理が確立するのである。(101~102頁)

 『平家』にはまだ平安期の女性文化の跡が十分に残っている。日本民族の感傷性ともいうべきものが、いかにもまざまざしく見える。が、その裏にはまたこれに対しての反省が加えられている。ここに日本的霊性の自覚を感ずる。霊性的生活は反省から始まる、反省のない霊性的生活はないのである。反省は否定である。今までは一途に、一気に、驀直に向前して更に眼を後方にめぐらさず、頭を左右に動かさなかったものが、これはと言って踏み止まって、自己を見、環境を見回すーーこれが反省である。即ち今までの向う見ずを否定することである。(152頁)

 親鸞と『平家物語』が日本的霊性がカタチとして現われたものとして提示されている。特に『平家物語』の部分で説明されている反省という概念について、留意して読んでいく必要があるだろう。


2015年9月22日火曜日

【第490回】『鏡子の家』(三島由紀夫、講談社、1964年)

 何ともとらえどころの難しい小説であった。作者が当時の時代を描写する上で、不透明な何かに取り組む若者のありさまを描きたかったのであろうか。とらえどころが難しくはあるが、美しい文章で織り成される物語は読み応えがある。

 四人が四人とも、言わず語らずのうちに感じていた。われわれは壁の前に立っている四人なんだと。(中略)
 『俺はその壁をぶち割ってやるんだ』と峻吉は拳を握って思っていた。
 『俺はその壁を鏡に変えてしまうだろう』と収は怠惰な気持で思った。
 『僕はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変ってしまえば』と夏雄は熱烈に考えた。
 そして清一郎の考えていたことはこうである。
 『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ』(99~100頁)

「そうだ。折角こうして逢ったんだから」と清一郎が急に思いついたように言った。「これから先何年か、われわれは逢うたびに、どんなことでも包み隠さずに話し合おう。大切なのは自分の方法を固守することだ。そのためにはお互いに助け合ってはいけない。少しでも助け合うことは、一人一人の宿命に対する侮辱だから。どんな苦境に陥っても、われわれはお互いに全然助け合わないという同盟を結ぼう。これは多分歴史上誰も作らなかった同盟で、歴史上唯一つの恒久不変の同盟だろう。今まであらゆる同盟が無効で、一片の紙屑におわったということは、歴史が証明しているんだからね」(100頁)

 資産家令嬢の家に気ままに集まり、お互いに空気のように好き勝手なことを話したり行動したりしながら、四者四様の生き方で人生を歩みながらも、奇妙な友情で結ばれる四人。その関係性は、複雑にして、かつ単純なものである。

『収は死に、峻は傷つき、夏雄は……。そうだ、俺が何も奴らを非難することはない。非難することは助けることの一種だ。少くとも俺たちの誇りは、最後まで、誰一人助け合おうとしなかったことだ。ーーだから俺たちの同盟は、今もすこやかにつづいているわけだ』(473~474頁)

 物語が後半に至り、死ぬ者、生き甲斐を失う者も現れる。そうした状況においても、当初の「同盟」を守り続ける。冷淡というイメージではなく、本当に不思議な関係性が描き出されている。奇妙な関係性の中心に位置する令嬢・鏡子が、最後に達観したかのように語る部分が興味深い。

「いいえ、私は治ったの。この世界がぶよぶよした、どうにでもなる、在ると思えば在り、ないと思えばないように見えるという病気から治ったの。この世界はこれでなかなかしっかりしているんだわ。職人気質の指物師が作った抽斗のようにきちんとして、押しても突いてもびくともせず、どんな夢も蝕むことができないようにできているんだわ。私がこれから信じることにした神様の顔を見て頂戴。赤いらんらんとした片方の目には服従と書いてあり、もう片方の目には忍耐と書いてあり、大きな二つの鼻の穴からは煙が出ていて、その煙が中空に希望という字を描き、だらりと垂れた大きな舌は食紅を塗ったように真赤で、そこに幸福と書いてあって、咽喉の奥には未来という字が浮んで見えるの」(542~543頁)


2015年9月21日月曜日

【第489回】『ドーン』(平野啓一郎、講談社、2009年)

 著者が他の書籍でも提唱する「分人」という考え方を題材にし、大事に扱った本作。分人という考え方については、著者の『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を扱ったエントリーでまとめているため、そちらを参照されたい。

 あれからもう十年が経っていた。ーーそう、十年。それは、世界中の誰もが共有している、一つの時間の話だった。今、経とうとしている一分間が、正確に昨日を一分間だけ過去へと押し遣り、一日の終わりが、一年前の出来事をまた一日分だけ、現在から遠ざけてしまうような、そうした時間。……しかし、ひとりひとりの人間が持っている時間は、もっと多様で、もっと乱脈で、頼りないもので、個人の中にある分人ごとの時間の流れが、途切れたり、どこかで始まったり、絡まりあって合流しては一気に加速したり、重くなったりして、行きつ戻りつしながら、どうにかまとまりをつけている。ーーそうした中には、ある時突然、何かの悲しみのせいで止まってしまったまま、消えてなくなるわけでもなく、いつまでも終わらない、孤独な時間もあるのだった。(124~125頁)

 分人とは、私の理解では、ヨコの拡がりを示す概念である。つまり、多様な他者との多様な関係性から構成される分人と、そうした複数の分人を統合する個人としての存在、という現時点でのスナップショットのイメージである。ここで興味深いのは、現時点での分人とその統合体としての個人は、分人ごととの歴史が、個人としての歴史に繋がるという時間軸が指摘されている点である。こうした考え方はキャリア論を想起させられ、より興味を感じるのかもしれない。たとえば、多様な役割におけるフェーズの統合体としての自分という観点からキャリアを捉えようとする、ドナルド・スーパーの「ライフ・キャリア・レインボー」との親和性は高いのではないか。

 あの時と同じだと、明日人は、知らないうちに白のように兆していたその空虚感のことを考えた。恥とは確かに、生き延びようとする人間のための感覚で、どうしても、この世界で生きていきたいと願うなら、捨て去ることの出来ないものだった。受け容れられたいと微塵も願わない人間が、どうして恥に苦しむだろうか?それは、恐らく悲しみに似ていた。生きよと命じ、生きる道筋を指し示しているにも関わらず、切迫するほどに、生きること自体を断念させようとする声とつい取り違えてしまう、一種の苦痛だった。ーーそう、苦痛だと理解されることだけが、唯一、恥を受け容れてもらえる方法であるように明日人はどこかで感じていた。その苦痛の甚だしさの分だけ、生きるに値する生を認めてもらえる。生そのものが断念されるほどの苦痛にだけ、人は再び微笑みかける。それを身を以て証してみせる時にだけ、また涙を流してくれる!それはどこか、<楽園>に似た静けさを湛えていて、彼をその慰安に満ちた光で絶え間なく手招きし続けていた。永遠に冷たい時間の奈落に、人間のぬくもりのまぼろしを落としてみせて、追いかけるのだと背中を押す、ひとつの慈悲深い嗾し。……(456~457頁)

 自分の分人の一つが感じる恥についての考察である。分かるような気もするし、少し理解ができない部分もあるが、どことなく惹かれる箇所である。もう一度、機会を改めて考えてみたい。


2015年9月20日日曜日

【第488回】『日本企業の心理的契約<増補改訂版>』(服部泰宏、白桃書房、2013年)

 最近では「採用学」で有名な著者の手による本書は、本格的な学術書である。論旨が明快であり、構造も分かりやすいのに、噛み砕いて理解することが難しいのは、読み手側の理解力の問題であろう。再読して、理解をより深めたいと思うとともに、現時点で理解したこと、あるいは、私にとって切実に関心があったとも言える点を以下に記してみたい。

 ある企業で働き始める際に、私たちは企業と雇用契約を締結する。これはいわば目に見える契約である。それに対して、本書の主たる概念である心理的契約とは、「雇用関係開始後のプロセスに主たる関心をおく」(19頁)ものである。このように、時系列に基づいて対比で捉えると、心理的契約の特色がよく理解できるだろう。

 質的アプローチに基づいて、心理的契約に関する概念を探索的に導き出した上で、著者は、因子分析によって概念整理を試みる。こうして導出された八つの因子に基づいてクラスター分析を行ない、社員が心理的契約をどのように捉えているかを分析している。その結果として、社員は「複数の契約を個別」のものとして把捉するのではなく、複数の契約を「束として知覚している可能性」を指摘している(138頁)。さらには、「自分が組織に対して強く期待している場合には、自分も組織から強く期待していると考える」ものであり、その逆もまた然りであるとする(138頁)。期待度が強いものと弱いものとでそれぞれマッチングしている様は、「雇用関係に欧米型の人事制度が反映されつつある」ことと「日本型人事制度の名残をとどめている」という二つが共存した「ハイブリッド型」の人事制度が生じていると言えるであろう(139頁)。

 続いて著者は、社員が企業に対して抱く心理的契約は、企業からどれほど履行されているのかという問いについて調査・分析している。その結果、社員は「キャリア、配置、業績評価に関わる項目について、組織側の契約不履行を知覚している」という発見事実から、「日本企業が成果主義人事制度の運用面での問題」を反映している可能性を示唆している(153頁)。この問題の可能性をさらに深掘りし、成果主義人事制度を受容しながら、その運用に関して心理的契約の不履行を感じているとしている。つまり、「成績・業績のフィードバック」の不足により「納得のいく成績・業績の評価」が充分でなく、「適切な配置」が実現されていないために、「キャリアの見通し」を立てられていないのではないか、という示唆である(153頁)。

 こうした一連の研究を踏まえた実践的含意として、三点を著者は述べている。第一は、「自社の従業員がいったいなにを期待しているか、それが確実に履行されているのかということを把握する努力が、各企業にとって必要」であること(179頁)。しかし、各社員のニーズは多様であり、それを把握することは簡単なことではない。企業の中に一定程度いる「弱期待型グループの存在」とそうした存在への対応が第二の含意である(180頁)。第三は、心理的契約を踏まえて社員が抱く期待と組織による履行へのギャップの埋め方、つまりは「自己調整のあり方に差がある」という点である(180~181頁)。心理的契約という目に見えないものでありながら、人々が抱く期待に対して、企業がいかに個別に対応するか。つまり、社員を束として捉えるのではなく、個別にいかに制度に適用してきめこまかく対応するか。本書は、日本企業に勤める人事の人間として、大事な指摘を論理的に指摘する貴重な学術書であった。


2015年9月19日土曜日

【第487回】『真田太平記(十二)雲の峰』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 十二巻にわたる大作を読み終えた今、静かな感動をおぼえている。真田幸村の大坂夏の陣での活躍がハイライトであると思っていた私にとって、その後の真田信之を巡る物語は目新しいとともに、しんみりと読ませられるものであった。

 関ヶ原以来、信之は家康に対しての忠誠を徹底して、
「まもりぬいてきた……」
 のである。
 ゆえにこそ、草の者などに、目もくれなかったといってよい。
 隠密活動などに、伊豆守信之は全く関心をもたなかった。
 その姿勢が、家康の胸の内へしかとつたわったのであろう。
 そこが、だれにもまねのできぬことであった。(334頁)

 人が人からの信頼を勝ち取るということは、他者を信じぬくことなのであろう。信じぬくためには、覚悟が伴う。その覚悟が、相手に伝わり、信頼を得られる。真田信之が徳川家康から信頼を勝ち取り、その信頼を揺るぎないものにした様は、私たちが信頼という概念を学べる教材なのではないだろうか。

 真田伊豆守の行列は、保基谷・高遠の山脈に抱き込まれたかのような松代の城下町へ、しずかにすすんで行った。(505頁)

 上田から松代への国替えの命に従い、松代へ粛然と向かう真田信之一行の描写で、本シリーズは終わる。作品の最後の一文、とりわけこれほどの大部の最後に何を書くかは難しいに違いない。しかし、優れた小説の場合、最後の一文が着飾らない美文になっていることが多いように思う。本作もまた、そうした小説の一冊であることは、言うまでもないであろう。

2015年9月14日月曜日

【第486回】『真田太平記(十一)大坂夏の陣』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 家康の執念が実り、豊臣家に引導を渡すための最後の戦い、つまり大坂夏の陣へと時は移る。あまりに有名な幸村の奮闘に刮目して読める物語ではある。しかし、それに加えて、戦いを前にした家康の老成した精神の成熟、三十年以上に渡り命運を共にした向井左平次への幸村の感謝の念、さらには幸村の死に対する信之の想い、など感動的なシーンに溢れた第十一巻である。

「若いころは、さておき、いまのわしは、鏡のようなものじゃ」
 と、家康が関ヶ原戦後に洩らしたことがある。
 つまり、家康を怖れ、家康を敬愛し、家康を憎み、家康に親しむ、百人百様の人びとの心が、家康という鏡に映っているというのだ。
 同時に、
「相手の出様によっては、鬼にも仏にもなる」
 ことを意味している。(165頁)

 鏡という表現が面白いし、家康の成熟を感じさせる。相手やその情況に合わせて柔軟に対応し、自分自身を変容させることを厭わないということであろう。目的のためであれば、手段をいかようにも選択することができるほど、「引き出し」が多いということであろうし、それだけの精神的なゆとりがあるということであろう。

 真田幸村は、向井左平次を抱き起こした。
 先刻、月影の馬首を抱いたように、幸村は左平次を抱きしめた。
 左平次の死に顔は、何やら、うっとりと良い夢でも見ているかのように、おだやかなものであった。
 おそらく、向井左平次は戦闘の火ぶたが切られた間もなく、敵の槍を受けたのであろう。
(左平次。死ぬる場所も、一つになったのう)(474頁)

 いまは、すべてが虚しくなってしまった。そのことよりも、自分の家来たちと、その他の、自分の部隊へ加わった牢人戦士たちが、どこまでも自分を信頼し、自分の指揮にこたえ、
(最後の最後まで……)
 忠実に戦ってくれたことへ、真田幸村は激しく強烈な満足をおぼえていた。(475頁)

 合戦が終わり、満身創痍の状態で死に場所を探す幸村。安らかな場所を探している中で左平次の遺体を見つけ、彼に対する感謝の念と同志としての想いが交錯する感動的なシーンである。また、左平次を含む、すべての真田幸村軍の戦士たちに対する強い想いに、心を打たれる。

 叔父の手紙をつかみしめた右手が、わなわなとふるえていた。
 むかし、弟と肩をならべて、共に戦った信州や上州の戦場の匂いが、叔父の手紙の中にたちこめているようなおもいがする。
 凝と坐っていることに堪えきれなくなった伊豆守信之は、突然、荒々しく立ちあがり、書院から広縁へ走り出た。
 信之は、
「左衛門佐……」
 降りけむる雨の庭の、深い闇の底へよびかけた。(509頁)

 幸村に対する肉親としての愛情と、真田家を守ろうとする想いとの狭間で、最も苦しかったのは信之なのかもしれないと思わせる場面である。豊臣を見限って徳川に早くから味方したことを合理的に過ぎるとも評価される彼であるが、現実主義ということは、感情と向き合い、それを敢えて見ないようにするという意識が必要である。そこには、深い人間の洞察と他者への理解が必要とされるのではないだろうか。

2015年9月13日日曜日

【第485回】『真田太平記(十)大坂入城』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 豊臣家の力をなきものにしようと画策する家康の執念の強さ。その強さの背景には、徳川幕府という組織としての強みがあり、その力を未来に向けて盤石なものとするために、豊臣家を滅ぼそうとする。その意志の強さは、自分自身が天下を取ろうというところにあるのではなく、戦のない社会を実現するという将来における社会レベルでの想いにあるのではないかとまで思えてくる。

 そうしたマクロな視点と比して、個人と個人、家と家との闘いというものは微視的にすぎるようにも一見して思える。しかし、生きる私たち一人ひとりの立場に立てば、一回の人生の中でいかに生きるか、という切実な想いもまた重要なのではないか。こうした視点に立って、以下の向井左平次の真田幸村に対する想いを読んでいると、思わず感動してしまう。

(それにしても左衛門佐様は、この左平次が沼田から大坂へ駆けつけて来ると、そう思うておられるのだろうか?)
 両眼を閉じた向井左平次の口もとへ、微かな笑いが浮いた。
(おれの生涯は、このようなものだったのか……)
 いまにして、それが、はっきりとのみこめてきた。
 人の一生など、わけもない。(203頁)

2015年9月12日土曜日

【第484回】『真田太平記(九)二条城』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 関ヶ原の後に、徳川幕府を開き、さらには家康から秀忠への将軍の交替を経て、家康個人から徳川家という組織による権力掌握へと盤石の組織構築が為される。それに対して、有効な手を打つことができず、いたずらに停滞の一途を辿る豊臣家。豊臣恩顧の大名が何とか事態の打開を図ろうとするも、効果を得ることが難しい中で時代が進んでいく。個人の力を組織の力に変えることの難しさを考えさせられる第九巻のポイントは、以下の部分に端的に現れている。

 一時は繁栄をほしいままにした一団体、一組織の衰弱が此処に在る。
 本能的に、おのれの衰弱をさとっているがため、行動ができぬ。
 なにをしようとしても、不安がつきまとう。
 だれもが責任を逃れようとし、今日いちにちの無事に、辛うじてすがりついているのみとなるのだ。(21頁)

2015年9月7日月曜日

【第483回】『真田太平記(八)紀州九度山』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 関ヶ原での、というよりは、関ヶ原に趣く秀忠を迎え撃ったことの責めを受けて、紀州九度山へ蟄居させられた真田昌幸・幸村父子。その謹慎生活において、表立った活動ができないために、第八巻の物語の主役として、真田の草の者たちに焦点が当てられる。

 忍の者たちの活躍の様は、音が静かであるからか、物語のトーンまでも静かなものになっているようだ。そうした中で、真田忍びによる家康暗殺計画の実行に向けた展開と、甲賀忍びによるその迎撃に対するエピソードも差し挟まれる中で、乾坤一擲の忍び同士の闘いの気運が高まる。しかし、その間際において、真田忍びによる暗殺計画を察した幸村が、女忍びのお江にその愚を切々と諭す箇所が印象的である。

「よう聞いてもらいたい。父上も、わしも、機来らば、大御所の首を討ち取ってみたい。これは申すまでもない。なれど、戦陣において討ち取りたい。戦陣なれば、関東に味方する兄・伊豆守殿とも戦わねばならぬ。よいか、ここが肝心のことなのだ」
 一語一語に、ちからをこめて幸村が、
「なればこそ、たとえ、われらが大御所の首を討っても、兄上は天下に引け目をおぼえぬ。それがもし、われらが草の者を使い、たとえば大御所の上洛を待ち受け、密かに息の根をとめたとすれば、どうなるか……。
 おそらくは沼田の兄上へも幕府の疑いがかかるであろう。いや、かからぬとしても、兄上の肩身がせまくなることは必定じゃ。ちがうか、お江。
 さすれば、兄上のみではない。沼田へ移った真田の親族も家来たちも、叔母御までも幕府の咎めをこうむると看てよいのではあるまいか」
 がっくりと、お江の肩が落ちた。
「そなたや弥五兵衛が、大御所の上洛をひかえて、いまこのときこそと奮い立つ心はようわかる。なれど、それほどのことなれば、これまでにも、してのけられぬこともなかったはずだ。父上やわしが、あえて、おもいとどまってきたのは、いま申したごとく、真田家はわれらのみで成り立っているのではないからだ」(568頁)

2015年9月6日日曜日

【第482回】『真田太平記(七)関ヶ原』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 大きな合戦においては、その合戦の最中における指揮や采配も重要であることに相違ないが、事前における準備や行動がものをいうのであろう。戦争とは、外交の一つの手段であり、政治的交渉が不調に終わった場合に行なうものにすぎないと喝破したのはクラウゼヴィッツであるが、関ヶ原の戦いはそれを思わせるものである。

 第七巻で描かれる各武将の戦略や人となりは、それぞれに個性があり、善悪で測れるものではない。結果から鑑みて、徳川家康が反徳川陣営を関ヶ原へ誘い、一回の会戦で天下を我がものにした手腕を誉めてみることも、石田三成を豊臣政権の衰亡へ導いた張本人と断罪してみることも、意味がないのではないか。しかし、その両者や彼等を取り巻く人物たちの個性をよく見てみると、当時のような乱世においては、非合理の中で決断を下すリーダーシップの重要性が求められた、ということは言えよう。

 昌幸や幸村、それに信幸などばかりでなく、この時代の、すぐれた男たちの感能はくだくだしい会話や理屈や説明を必要とせぬほどに冴えて磨きぬかれていたのである。
 人間と、人間が棲む世界の不合理を、きわめて明確に把握していたのであろう。
 人の世は、何処まで行っても合理を見つけ出すことが不可能なのだ。
 合理は存在していても、人間という生物が、
「不合理に出来ている……」
 のだから、どうしようもないのだ。(127頁)

 緻密な計算を積み重ねて合理的な回答を導き出したとしても、その計算の前提となる所与の条件じたいが変化してしまえば、その回答は合理的なものとはなり得ない。理の重要性を否定するつもりは毛頭ないが、情や勘といったロゴスで測れない要素に基づく決断の重要性を、変化が激しいと呼ばれる現代において私たちは見直すべきであろう。

2015年9月5日土曜日

【第481回】『真田太平記(六)家康東下』(池波正太郎、新潮社、1987年)

 上杉景勝と石田三成との呼応により、時代は関ヶ原へと誘われていく。それはすなわち、西軍につく真田昌幸・幸村と、東軍につく信幸との別離をも意味する。

 真の悪漢は、その悪の本体を決して見せぬものだ。それでなくては、人を偽ることもできぬ。
 これまた、悪事や悪漢の場合とは異なるが、たとえば、豊臣秀吉を見るがよい。徳川家康を見るがよい。
 大望を抱いた彼らは、おのれの実力をそなえるために、また、人心をわが身へあつめるために、あくまでも微笑を絶やさず、へり下るところはへり下って、いささかも倦まなかった。
 怒りに堪え、得意満足をみずから制した。(249~250頁)

 偽ることの善し悪しは扨措き、大志を抱いているのであれば、眼前の小さな問題に対して感情的にならず、他者に対して謙虚であること。

 自分のことはわからなくとも、他人のことは冷静に観察できる。
 ゆえに、他人の忠告を聞いて、
「えらそうなことをいうものだ。自分がしていることを考えてみるがいい」
 と、断定してしまうのは、あまりよくないことにちがいない。(266頁)

 考えさせられる言葉である。自分のことはよくわからないものであり、だからこそ他者からのフィードバックには異論を軽々と挟まず、至言として傾聴すべきなのであろう。

 少々長いが、昌幸・幸村と信幸とが敵味方に別れるシーンが印象的であるため、そのまま引用したい。

 ややあって伊豆守信幸が、盃を口に含みつつ、
「左衛門佐……」
 と、よびかけた。
「はい」
「おぬしは、何とする?」
「父上と共に……」
「さようか」
 真田昌幸の唇がうごいたのは、このときである。
「豆州。徳川が勝てば、大事じゃぞ。大坂が、もみ潰されてしまうぞよ」
 昌幸は、豊臣秀頼も家康の、
「餌食になってしまう……」
 ことを、差しているのだ。
「まさかに……」
「まさかにではない。そもそも、こたびの戦は、豊臣家をもみ潰さんがため、内府が仕掛けたものではないか、どうじゃ」
 信幸は、こたえなかった。
「家康を残すのと、三成を残すのと、どちらが豊臣家の御為になる。わかりきったことじゃ。三成なればわがままは通るまいゆえ……」
「父上……」
「うむ?」
「豊臣家の御為と申すより、どちらが天下の為になりましょうか?」
「天下じゃと……」
「父上は、これより先、ふたたび天下取りの戦乱が相つづくことを、のぞんでおられますか?」
 昌幸が、にやりと笑った。
「父上……」
「もう、よいわ。豆州、これで決まったのう」
「はい」
「内府は、さて、勝てるかな……?」
「かならず、勝ちをおさめられましょう」
「どうであろうかのう」
「勝ちまする」
 きっぱりと、信幸がいった。
 左衛門佐幸村は、このとき、信幸へ酌をしながら、
「父子兄弟が、敵味方に別れるも、あながち、悪しゅうはござるまい。のう、兄上」(330~332頁)