約十年前に読んで感銘を受けた本シリーズ。財前の最期のシーンを読みながら、電車の中で滂沱と涙したのが懐かしい。自ずと財前に焦点を当てながら読み進めているのであるが、なかなか感動的なものは少ない。主要なポイントと結論は分かっていても、物語じたいに引き込まれてしまうのは、名作といわれるものの為せる力であろう。
そんな馬鹿なことが、外科の助教授として俺ほどの実力のある者が何という気の弱い、ありそうもないことを考えるのだーー、財前五郎は、その精悍なぎょろりとした眼に鋭い光を溜め、毛深い手で唇の端にくわえている煙草を、ぽいとコンクリートのガラの上へ投げつけると、さっきと同じように自信に満ちた足どりで、助教授室のほうへ足を向けた。(12頁)
財前に対する私のイメージは、まさしくこのシーンに凝縮されている。自分に対して自信を持ち、意欲的に動き回る人物。企業に勤めているとこうした傑物に出会う機会というものは少ないのかもしれないが、一つの理想として思い描く人物像であることは間違いないだろう。
黒川五郎が財前家の人間になってからは、息子の給料の中から送ってくる仕送金を受け取る以外は、財前家に面倒をかけたり、不必要に財前家を訪うようなことを一切、さしひかえている母の姿の中に、財前は母の愛情の深さと独り暮しの寡婦の健気さを感じ、母のもとへ帰ってやりたいような思いに襲われることがあった。しかし、助手の時代から今日までつまらぬ金の苦労をせずに、研究にだけ力を傾け、三十五歳助教授になり、それから八年の間も、地方病院へ出されることもなく、次期教授の候補者として人の口にのぼせられるようになったのは、寡婦である老母が田舎でのわびしい独り住いに耐え、財前五郎の医学者としての出世のみを念願し、喜びにしてくれている賜であることを思うと、財前は、今年七十五歳の母が健在なうちに教授になって、母を喜ばしてやりたいという平凡であるが強い願いが湧き上がって来た。(31頁)
財前に私が魅了されるのは、 数少なくはあれども、こうした人間らしい描写の故であるのかもしれない。自己顕示欲も然り、母への愛情も然り、自然のままの人間という感じが、財前の魅力なのではないだろうか。
東は暫く黙り込んでいたが、やがて妻の言葉に頷きながら、人事なんてものは、所詮、こんなつまらぬ些細なことで決まるものなんだ、何もこの場合だけじゃない、他の多くの場合だって、大なり小なり、こうした要素を持っている、人間が人間の能力を査定し、一人の人間の生涯をきめる人事そのものが、突き詰めてみれば必ずしも妥当ではない、残酷な、そして滑稽な人間喜劇なんだーー、自分の心に向って弁解するように云うと、東は、残っているコップの水を、ぐうっと一気に飲み干した。(264~265頁)
次期教授戦において、財前と対立することとなる、彼の指導者である東。その対立の様も人事を巡る一つのドラマとして興味深いとともに、人事という現象に対する東のつぶやきは、人事パーソンにはいたく考えさせられる一言である。
『白い巨塔(二)』(山崎豊子、新潮社、2002年)
『白い巨塔(三)』(山崎豊子、新潮社、2002年)
『白い巨塔(四)』(山崎豊子、新潮社、2002年)
『白い巨塔(五)』(山崎豊子、新潮社、2002年)